人生

やっていきましょう

331日目

マスクをしながら公園を2kmほど走り、体力が尽きた頃には更に3kmほど歩いていた。道中老人がマスクもせずに咳をして風が自分の方に向いていたから、こちらの方に飛沫が流れてきそうだなと思ったことが今日1番印象に残ったことだった。

頭上を見ると並木が生い茂り一面まっさらな緑色の葉が風で揺れていたので、もう春ではないんだなと思いながら道なりを歩いていた。コロナウィルスの影響で季節感が狂っていたが、水栓で遊んではしゃぐ児童やスポーツウェアを着て走っている学生たちを見るにつけて、ようやく今が5月なのだと悟った。

そうした感慨も家に着くまでで、部屋に戻ったらどうでもよくなりダークソウル2を起動した。PS4の起動音とファンの冷却音を聞いて気だるさを感じた。昨日から思いつきでトロフィーを全部埋めようと考えていた。

ダークソウル2はトロフィー獲得が比較的困難なゲームであると思う。オンラインマッチングが前提のものがあり、オフラインでやろうとすれば最低2周半はゲームをクリアしなければならない。そもそもトロフィーをコンプリートするということ自体が相当な困難を伴っている。ネットに書かれたwikiを見てようやく誰でもできる難易度にはなっている(にしてもダークソウル2は相当面倒だ)。

いつもの画面を前にして、スマホを片手にWikiが示す道をただなぞっている。この呪術はこのNPCが売っているので買いにいけ、とあればその通りにする。この魔術は低確率で出現する敵対NPCを30回殺さなければ手に入らない、とあれば結果が出るまで何度も挑戦する。

滑稽な話だ。用意された答えの言いなりになっていると自分で気づいていない。自分は冒険をしている気になっているが、実際冒険しているのは自力でそのアイテムを見つけた人間だけであって、自分はその記録をただ追体験しているにすぎない。予め中身が分かっている宝箱など、どれだけ音響で誤魔化しても興ざめでしかない。

とはいえそれほど退屈でもない。答えが分かっているゲームには冒険的なプレーとは別の面白さがある。それは知識に裏付けられた万能感、迷いの無い決断に酔いしれることだ。いかなる局面であれwikiにはずれはないのだから楽勝でしかない。試行錯誤の段取りを飛ばして無駄のない最高峰の筋道を知ることができるのだから、あれこれ悩む必要がない。そうした約束された勝利には、自分の人生で得難かった「すべてがうまくいく」という気分が簡単に味わえる。

こうした万能感を否定するのは容易いが、敢えて受け入れてみるのも悪くはない。自分に最も欠けているのはこうした浅薄さなのだ。自己否定や葛藤に悩まされるよりは、どれだけ興ざめな発想であっても、答えに導かれるままに行動し続けて自信をつけたほうがいい。場合によってはそれで自分に酔えばいい。酔ったところで、根の奥深くまで浸透した自己否定が崩れるわけでもない。

夜も遅くなってきた。本当は書くべきことが山ほどあったが、いつの日かの繰り返しでどうでもいい愚痴でしかなく、何の発展性もないので止めた。時々自分の書いていることがいつの日の反復なのか気になるときがある。恐ろしくて以前記した記録を振り返ってみたことがないが、おそらくどれも過去の古傷を自ら抉って現在の視点に再解釈するということをただ繰り返しているだけだろう。こうした供養が今はそれほど必要ではない。ただ精神が崩れたときは、再び助けを借りることになるだろう。