人生

やっていきましょう

479日目

数年前の開発の痕跡に触れた。今の文章と比較したところ、情報量を削減し、よりコンパクトにまとめることができるようになっていた。そのため一読しただけでそこに何が書かれてあるかが大体理解できるようになっている。

ゲームとしての可読性を見るならこれは理想的だが、質的な面では多少違和感がある。どこかあっさりとしていて味がない。

長期連載の漫画でいくつか似たようなことに遭遇したことがある。ナルトやブリーチ、ハンターハンター、あるいはジョジョ美味しんぼなど、多くの漫画を見て思ったことだが、最初期の画と最近の画を見た時、前者の頃にあった「面白み」がまったく感じられなくなっている。多少は粗い画でも初期の作品は個性が感じられたが、年数を経るにつれどこかもっさりとした印象を受けてしまう。

質が衰えたということでは断じてない。むしろ飛躍的に向上さえしているが、自分が初期の画から感じた何かが失われている。当然こうした見方は懐古的で新しさを認められない状態にあるという批判を受けることになるだろうが(事実、自分はそういう趣味であることを否定はできない)、そうした好みの問題を抜きにしてもこの違和感には興味を惹く。これはいったいどういうことなのか。

自分の中での理解としては、長い間修正し続けていると良くも悪くも癖がなくなる。角が落ちて丸くなる。だから面白みがないのだと考えている。修正による現状の否定の反復により、その人本来の原始的な感性を摩耗させる。

例えば絵で言えば下手な人間は千差万別の下手さがある。しかしその中で絵を上手くしようと考えるなら、上手い人の技法を学び、何度も練習を繰り返す。より安定した絵の型を目指す。リアルな絵を描きたいのであれば人体の構造を学ぶ。陰影を工夫したいのであれば影のつき方を学ぶ。そうした地道な鍛錬の末に再現性のある上手い絵が完成する。だがその過程で個性的な粗さが修正され、外れのない安定した型通りの絵になっていく。

下手な絵であれば、手が異常に長かったり、顔がモアイのようになったり、人体が折れ曲っていたりと、多様性に富んでいる。そのひとつひとつに自分はその人らしさを見出す。その名残を感じさせない絵はどれだけうまくても自分の心には響いてこない。どこか大量生産されたキャンベルスープような印象を受ける。

それと同じことが文章においても成立する。自分がゲームの台詞を書いているとき、多くの情報は意図的に削減されている。初期の自分には言語の過剰というべき傾向があり、対話としては不適格だった。その混沌から感じさせる奇妙さと独自性は、削減する前は確かに存在した。だが自分はその違和感を消す方向に舵を切った。どうすれば(ユーザーがプレーしたときに感じるであろう)違和感を消せるのか、といったことを無理やり考え続けた。だから混沌は整地され、可読性のある表現が台詞の中心となった。

なぜそうしたのかというと、独自であることに耐えられなかったからだ。ゲームのセリフというものがどうあるべきかなどという原理も定義もないが、どういう演出が効果的であるかということには一定の答えがある。自分はそれを克服することができなかった。ゲームにおける可読性は基本中の基本であり、さもなければそもそも台詞を読んでもらえないという事態が発生する。自分はやはり他人を無視することができなかった。プレイヤーとの意思疎通を求めてしまった。

この過剰により自分の文章は読みやすくなった。だがそこに個性はあるのか。自分がしたことは上手い絵を描く人間が努力した道と同じものである。自分を型にあてはめ、型を洗練させるというものだ。それによりかつて抱いていた文章への違和感はほとんど減った。だがその違和感に宿っていた自らの独自性はほとんど見えなくなった。残ったのは機械的な作業により生み出された、再現性のある文章だけだ。

今はまだかろうじて自分の名残が存在する。その名残を意図的に残そうとしているからでもある。しかし最近のセリフにはほとんど自分らしさがない。既視感しかない言い回しばかりで、面白みに欠けている。

型は重要だ。それこそ型を持たなかった自分はその有用性と、その獲得のための努力の重大さを十分理解している。その上で自分が今求めるべきなのは型であるということも分かっている。だがそれにしても、その破壊的な自己の洗練に没頭するあまり、自らのオリジナリティに注意することを忘れてしまっているのではないか。それは型の内側ではなく外側にある混沌の気配だ。その原野を忘れ人工的な作業に没頭することは、なるほど文章としては精密でもその面白さを半減させることになりかねない。

このことに無意識になりがちであるため、その都度書き起こす必要があると思う。自分がしてはならないのは方向性を混合するということだ。つまり独自性の追求と再現性の追求と洗練の追求といったものを、同じ追求だからといって1つに混同してはならないということだ。それぞれは異なる方向性であり、かつ場合によっては共存・協力し合える(もちろん対立もする)。これらを道具のように扱い、状況に応じてパズルのように組み合わせることで、今よりずっと面白い文章が生まれてくるだろうと思う。