人生

やっていきましょう

上手い絵よりも下手くそな絵を見る方が楽しい。上手い絵は大体似通ったものになるが、下手なものは千差万別だ。

ある素人が描いた絵、お世辞にも上手いとも言えないような絵には、固有の曖昧さがある。一般的に絵の才能がないと言われている人間の絵には迷いがある。こう描けば良いという感覚がないから、顔面は大きくなるし身体は変形する。

この迷いの感覚が、上手い絵からは何も感じられなくなる。感動や没入といったものは引き起こすが、存在の違和感は失われる。優れた画家というのは、対象を自明のものとして映し出すのが上手い。

一方下手な絵というのは、見た瞬間に強烈な違和感を喚起する。それらの存在はその定まらない個性ゆえに、見る者の前提を破壊し、侵食する。初めそれらを見るのは不愉快であり、嫌悪すらある。

しかし何度も眺めていると、この不定性が固有の表現であることに気がつく。人は何かを思い描いて完成形を目指す。それを当たり前のように受け入れている。完全に対する美の誘惑が、人をその表現に駆り立てる。その過程で本来の粗さ、雑さ、不注意を否定し、理想美を再現する高度なテクニックの使い手となる。

しかし下手な絵は、美の表現という描き手の前提、広く共有された暗黙の了解の外側にある世界を見せてくれる。誰もが羨むスポーツマンやアイドルの描く奇形の表現は、古代文明の壁画や未開の芸術を思わせる。それは狙って描けるものではなく、狙わない(狙えない)からこそ描けるものである。

下手でもいいから固有の作品が見たい。それが少なくとも自分の鑑賞の動機である。しかし奇妙なことに、こと自分が作品の作り手となるとこの下手さに妥協したくなくなる。これだけ下手な作品を求めているのに、何がそうさせるのか。

おそらく自分自身も知らず知らずのうちに完全への誘惑に駆られていた。特に今作っているゲームは、先に述べた鑑賞とは別の制約がある。

このゲームは早い段階で一般向けにすることを決めていた。つまり自分とプレイヤーが楽しめる接点であろうとした。だから自分の中で違和感を排することが最優先事項となった。それが何年も続き、敢えてそうしていたはずのものが、いつのまにか本当にそうしなければならないと思うようになった。

最近の自分が開発に行き詰まっていたのは、この違和感の排除を優先するあまり、自分の中の本来の動機を忘れていたからである。自分は自分の独自性が追求できれば良かった。それが作り手としての本心だった。それは否定してはならない。しかし同時に、その作品を一般向けに整理する自分も否定してはならない。それもまた本来の狙いであった。

自分の中に作家と編集の両方を手懐けよ。しかし混同してはならない。作家の時は自由に表現を追求し、編集の時は表現を整理する。今の自分には編集しかいなかった。自分はもっと自分の動機を信じる必要がある。