人生

やっていきましょう

944日目

対人面で自分が抱いていた誤解は、自分が抱えているいかなる情報、もしくは自分が想定しているいかなる問題点、およびその可能性を、そのまますべて相手に提示することが誠実であると考えていたことだ。

これらをすべて他人に提示するというのは、たとえそれを伝え相手がそれを理解することが総じて相手に有利なものになるとしても、その膨大な情報量ゆえに相手の負担になるということを考えていなかった。

例えば自分が相手に何らかの要求をするとき、相手がその要求を飲んだことにより幾ばくかの不利が生じる可能性を自分が予め理解している場合、自分はその可能性を相手に伝えなければ強い罪悪感に駆られてしまう。そのため自分が想定しているあらゆる点については相手と共有しなければならないと考えてしまう。

しかしこれは誠実さゆえに進んで行っているものではなく、相手に不当に怒られたくないという逃げの姿勢から生まれたものである。

しばしば霞ヶ関のパワーポイントは情報がびっしりと埋め尽くされており何が書いてあるか分からないとされる。圧倒的な情報量でプレゼンテーションに最も必要なインパクトや可読性を殺しているのである。一説によれば、あれは読ませるために作るものではなく「そこに書かれていない」ことに対する批判を避けるために行われているものであるらしい。どこか自分の姿勢と似ている。

圧倒的な情報量を費やして自身の正当性を示すというのは、自分がどれほど否定しても屁理屈や言い訳、詭弁のように見られてしまう。それはなぜかといえば、相手は必ずしも正当性を巡る長い議論を求めているわけではないからだ。ただ必要な情報だけを求めている場合もあれば、そもそも対話だけを求めている場合もある。そのすべてに自分が想定している問題を提示することが最善であるとは限らないのである。

ではどの情報を削れば良いのかと考えるとややこしくなる。どれも必要な情報であるように見えてしまう。

ひとつの提案として、一度に情報を出そうとするのをやめるというのはどうだろう。問題を想定していても、本当に言わなければならないことでない限り、あるいは相手がその議論を求めてその場にいるのではない場合、求められるまで頭の中に留めておいて良いだろう。他人に何かを伝える時は直接的な要点のみを伝えるようにした方がいい。それだけで必要な情報量はかなり減る。