人生

やっていきましょう

539日目

自分が何か考えを思いつきそれを文章にして表したとき、自分の中では確かにそれが根拠のあるものとして書かれていると思っていた。しかしよく考えてみれば、その言葉の裏付けとなるものはほとんどなく、単なる気分で吐き出された言葉であるということが次第に分かってくる。

この事実に自覚的である必要がある。自分の思考は一般的に気分から成り立っている。吟味を欠いた直感である。それはすなわち「なぜそうなるか分からないが、なんとなくそうであると思ってしまう」ということである。自分はこの危うい論理の飛躍に何度も身を任せた。その結果、論理的に考えるという方法がよく分からなくなってしまった。

絵を描いているとき、あるいは今こうして文章を書いているとき、自分はそのほとんどを直感に任せている。これが恐ろしいのは、次に何が来るか、何を形にして何を言葉にするかということが明白に見えていないということだ。自分は次に何が来るか分からないが、おそらく何かが来て、それが何なのか何となくわかっている状態にあって、自分に目隠しをしたまま自動筆記に近いものを行っている。

こうして奇妙にねじ曲がった奇妙な理路を後から一覧して、ある部分まで遡って不要な後文を切り離し、その枝葉の先から再び直感を生み出し続けるというサイクルをおこなっている。このように自由な連想の後から吟味を挟むことによって、それらしい文章が書けているように見せかけられてはいるが、完全な吟味と論証を経て得た結論ではないため、たとえば誰かにある具体的な部分について問われたとき、それがどうしてそう言えるのか自分でも分からないという状況に陥ってしまう。

この問題について思案するとき、自分はいつも賢い人間のことを考えてしまう。賢い人間は自分の思考をはじめから論理的に構築することができ、自分の主張をある分解可能な巨大な論理の構造物として捉えることができている。何かについて問われたとき、その答えとなる情報を、埋め込まれたパズルの1ピースを取り出すように発言することができる。これはこういった点で隣接するピースをうまくかみ合うのであり、それゆえにこのピースはこの空白の形状に当てはまるといった具合だ。

こうした思考、つまり自分の主張が隣接する情報との論理的な相互作用によって保証されており、それゆえ常に自分の主張には妥当性を持てているような人間の思考が、自分にはない。このような論理の接続が見えない自分は、思考の起点からあるポイントまでの歪んだ一筋の道のりばかりを察知してしまい、それがどれほど遠回りな道のりであってもその通りに進むことしかできない。むしろそのような意志決定すら存在せず、気が付いたらその通り歩いているといった方が正しい。

このとき何が起こるかというと、直感の指し示す一筋の遠回りなルートを辿ることばかりが上達する一方、それ以外のルートについて探すことも、吟味することも、軌道を修正することもまったくできないままであるということだ。先に述べた通り、自分はなぜこのルートを進んでいるのかが説明できない部分が多く、言語化できないので修正の検討を行うこともできないという状態にある。

こうした考えに頼り続けるのは危険だ。たとえば自分が何らかの弾みで新興宗教政治団体、あるいはビジネスセミナーや陰謀論に感銘を受けて自らの直感に取り込んだとしたら、自分はそこから自力で帰ってくることができなくなる。あるいはそこまで極端でなくても、日常的に想起される自分の主張に、ある特定の方向に偏りが生まれたときに自力で軌道を修正することができなくなる。なぜなら根本が「なぜそうなるか分からないが、なんとなくそうであると思ってしまう」だからだ(おそらく芸術家に極端な思想家が多いのも、こうした直感の奔流をそのまま政治や宗教に当てはめてしまうからだろう)。

だからこそ自分は論理的に考えることを常に怠らないようにしなければならない。自分は論理的に考えられない人間だからこそ、直感の暴走に歯止めを利かせる必要がある。そのために自分は地に足のついた情報を尊重しなければならない。事実との比較によって、自分の直感を相対化する必要がある。直感は直感であると認め、場合によっては事実の方を優先させる必要があることを極力自覚するべきだ。おそらく今以上に、事実を知り学ぶ姿勢を身に着けることが必要だと思う。