人生

やっていきましょう

747日目

自分が何かを口にしようとした瞬間、自分の主張が本当に妥当性を持ち得るかということを考え始める。そこで意識が相手から自分の内面に向き、思考が切断される。数秒後、意識が元に戻り、何か言わなければならないということに気づく。しかし自分の意識は既に内省で掻き乱され、どこから話を戻したら良いか分からなくなっている。パニック状態のまま時間が過ぎていく。こうした状況を自分は何度も経験した。

咄嗟の自己批判が何の前触れもなく生じることに自分は苦悩する。何かを言いかけたときに、自分はその発言の致命的な欠陥を直感的に気づいてしまう。自分が言おうとしていたある主張には、明確な根拠に乏しく、思いつきや感想の域を出ない。そうした不完全な意見を他人に語ることに自分は責任を取ることができない。だからアクセルを踏んでスピードを出そうとした瞬間に急ブレーキを踏むことになる。

自分が見た限り、健全な人間たちはこの発言の中身に潜む欠陥に対してほとんど警戒していないようである。彼らは自分がそう思った、感じたことを基本的に妥当なものとしてそのまま信じられるのであり、自らの思考の誤りを過剰に警戒し恐れるようなことはしない。

健全な人間たちの会話の流暢さを見れば、会話というものが妥当性の確認作業である以前に信頼関係の構築であるということが分かる。自己批判的であるということは必ずしも相手の信頼を得ることにはならない(相手からすれば自分のことしか考えられない人間に映るだろう)。

むしろ対人面においては事実以上に信頼構築が優先されている節がある。事実を見れば求められる課題に対して不確定要素が多く先が読めない状況であっても「できる」と断言した人間に人は好意を持つ。不確定要素について散々悩み抜いた思考の過程に人はあまり興味を持たない(それは一般的に言い訳として捉えられる)。

不確定要素について断言することを自分は恐れている。それは自分の意見を持っていないということではない。自分の意見が自分の意図しない方向に他人を傷つけ、あるいは誤解され、理解してもらえないことを恐れている。

しかしこの考えこそ重大な欠陥を抱えている。それは自分の意見が自分ではなく相手の要求に敵うかどうかで決められているということだ。自分が面接で失敗するのは、どうにか自分を曲げてでも他人に気に入らなれなければならないと過剰に思い込みすぎる反面、同時に自分の理解が及んでいない問題や本当に感じていないことについて語るべきではないと思い込みすぎるからだ。この二者の矛盾により自分はパニックになり思考が切断される。

解決は自他のどちらかを優先させることで図られる。自分は自分を曲げてでも他者に気に入られようとすることを諦めた。無能であると思われようが、理解できていない問題は理解できていないと答え、自分の思ったことは率直に言うようにした。社交における信頼構築という問題は、自身の思ってもいないことをベラベラと言うのではなく、自分が感じている範囲のことで信頼構築に努めることにした。それにより自分を好ましく思わず離れていく人間もいるだろうが、それで構わないと思った。自分の無理によって維持される人間関係など苦痛でしかないからだ。

まとめると次のようになる。自分は自分の意見がほとんど無根拠な気分によるものであるということに自覚的である。その修正を咄嗟に行おうとして無理が生じる。しかし本来、社交においては自らの合理性に懐疑的になり過ぎる必要はない。それは自身の課題として内面のうちに行われるべきものである。

社交は相手との信頼関係の構築を無意識のうちに目指して行われるものだ。社交においては普段の優先順位を逆転させ、自己批判よりも信頼を得る振る舞いを行う必要がある。そのためには自分を貫きながら万人に気に入られようとする矛盾を解消し、自己本位に基づく可能な範囲の譲歩によって信頼を獲得していかなければならない。その結果他者が自分から離れていこうと、自分は自分を優先させる。