人生

やっていきましょう

595日目

この停滞が10年以上続くとしたら、自分は長期に渡って同じ考えを何度も繰り返すことになるだろう。自分はそれをいちいち言葉にすることで何か前進した気になっているが、実際は思考の堂々巡りを繰り返しているにすぎない。前進という楽観的な希望を維持するための儀式は、実際に何かの目的に合わせて自分を変化させたというよりは、単なる気分の問題として済まされている。それは結局のところ、自分への誤魔化しである。

信条を持たない自分が自己正当化できる最後の手段がこの前進に対する無条件の肯定である。自分がなぜ生きるかを考えたとき、消極的な理由を除いて他に思いつかなかった。前進、とにかく自分の現状、自分の考えをいい方向に変える、成長する。そのひたむきさに自分は信頼を置いているのであり、そのために生きるのだと記録を始めた時からずっと思ってきた。

本当にそれしかないということを最近は実感する。そしてそれが危ういということも。こうした信条は努力信仰と呼ばれることがある。要するに目的達成のための手段として努力を行うのではなく、努力そのものに価値を置いているという状態だ。とにかく頑張っている自分に酔いしれたいのだ。それは頑張るということが社会で奨励されていることであり、頑張るという行為によって人々から無条件に承認されると半ば信じているからだ。

自分は弱い人間だ。社会からの承認という過程を経て初めて、自分の存在が正当化され得ると考えているようだ。本当はその承認を得るために努力をしているのではないか。ふと自分はそんなことを考える。結局自分は社会から歓迎されなかったというトラウマを今でも引きずっていて、それらが救済されることを望んでいるのだろうか。

こうした承認のための努力は不毛であるばかりか害ですらある。目的が移ろいやすく、自分で進むべき道を定められず、他人に都合の良いように扱われる。承認を望んで自分と価値観の合わない人間にも無理矢理合わせるようになる。

だが承認に盲目的になると、承認を与える人間に対して無条件に信頼を置いてしまう。こうした発想がある人間ほどカルトやサロンにハマっていくのかもしれない。

自分は今、努力によって状況を改善するという方向性が示されている。ただそれだけである。物事の改善可能な余地がそこに存在し、改善不可能な問題、自覚できない問題と並立して置かれているそれは、いずれの場合よりも多少は肯定できるという状況にある。それ以外の指標を自分は現在持っていない。

自分の虚無を誤魔化す手段が、この偽りの向上心以外に持っていないというのは本当に貧しい。少し立ち止まって何かを味わったり、変わらなくてもいいと思う余裕はなく、ただ自分を破壊し、自分を強化しろとしか思うことができない。それが不毛であるということは十分理解しているが、他に自分が生きることを正当化できる理由がない。

では自分が前進できなくなったらどうなるのか。前進のポーズを決められているうちは自分を誤魔化すことができても、前進できない自分を否定し克己しようとしてきたことが、できなくなってからそのまま自分に返ってくる。その時自分はどう自分の生存を誤魔化すのか。都合よく若い頃の過ちを認め、老年らしく自分の納得する世界に芯まで浸りきることができれば大したものだ。だが自分にそれができるのか。その時を考えると、自分はあっさりと自殺してしまうのではないかと不安になる。