人生

やっていきましょう

449日目

最近自分は機能的な思考を無理して装っているのではないかと考え始めた。今まで自分は、連想と直感に頼らず論理的な思考に基づいた機能を実装させるという考え方に活路を見出してきたが、実際のところ、それは自分本来の適性に合うものではなかった。努力で少しは適応することができても、結局は自分のものにはならない。今でもそれはどこか異質な操作である。

自分が機能的な思考と呼ぶそれは、最低限の核となる要素の組み合わせによって有効な結果をもたらすことを目指している。何かを行動する際には目的を必ず設定し、達成のために必要なステップを考える。解決に直接関わらない問題は不要と見なす。問題に関わる要素同士の関係は端的に示す。思考の無駄を抑え、要点のみを揃えた全体図を俯瞰する。このようにして思考の混乱が晴れると考えた。

これが当たり前のようにできている人間には頭が上がらない。自分の思考は目的を設定しない混沌から生まれたアイデアに支配されている。ひとつの話から連想が始まり、気がついたら話が何度も脱線している。思考の無駄に支配され、問題の要点がなかなか掴めない。思考は混沌としており、目的を見失いやすい。混沌が自分の原点であり、機能で制御できるとはどうしても思えない。

しかし、それでも自分は思考を制御し、自分のものとして活用できる術を学ばなくてはならない。これができないと混沌から来る狂気や熱気に取り憑かれ、自分の意志を確立することができなくなる。自分の制御能力の不足からは目を逸らし、こうした暴走を自尊の根源にしていた時期もあったが、野放しにされた狂気や思考は大抵の場合、ある種の単純さを反復するところにあり、一瞬の奇抜さを除けばあまり満足のいくものではなかった。意思のない思考の暴走はいつも似たような堂々巡りに陥り、同じような反応を繰り返している。判断の放棄が自分を1ステージ前進させると思っていたら、実は同じステージをぐるぐる回っているだけだった。

自分はいまそうなっている。機能的に考えることが自分に合わず面倒で、漠然とした思考に流されていた以前の自分に戻りつつある。混沌に安住し、同じような思考の奔放を反復している。そこに自分は満足していない。おそらく改善したところで、そこには改善された反復があるだけだろう。だがそれでも今の状況よりは満足のいくものだ。このまま自分が思考に流され続け何も分からず、何もできず、混乱の内に果てるということが自分には耐えられない。

だから少し無理をしてでも機能的な思考を自分に与える。自分を制御し自分を自分で操作する。自分にとってはまったく異質な発想だが、極めて重要だ。この思考には応用の仕方が無数にある。今まで不可能と思われていたことがいくつか可能になるという検討がついている。

自分に機能の適性はない。自分はプログラマーでもなくエンジニアでもない。理数分野には疎く、ロボットやコンピュータを見ても内部の働きに没入するほどの興味を持つことができない人間だ。しかしそれらの内に宿る基本的な考え方はどうにか吸収したい。未だに自分のものにはできていないが、いずれ自分のものにしたい。