人生

やっていきましょう

686日目

他責思考について考えていた。自分が何か悪い状況や困難に陥っているのは外発的な原因、とりわけ特定の人物が引き起こした問題によるものだと考えることだ。

自分が傷つき苦しみ人生が歪み、本来の自分を生かせなかったのは学校環境、家庭環境、他者の無理解、社会の風潮、それらのことが原因だと思い、自分よりもそれらのことが一層責められるべきだと思うこと、それが他責思考だ。

自分はよくこの信念を抱くことがある。平たく言えば、何か問題があるとすぐに相手が悪いと思ってしまう。おそらくそこには何かしらの根拠があるだろうし、自分の不満というのは単なる誤解や思い込みであるとは限らないだろう。

しかし他責をするということに何の意味があるのか。自分が不安を抱きやすく、あらゆる面で能力的に劣り、人並みの人生が送れていないことが、仮に複数ある外発的な要因の多大な影響によるものだとしても、だから全てはそれらが悪く自分は何も悪くない(仕方ない)と思うことがいったい何の解決になるのか。そう思ったところで結局自分の人生の劣勢は変わらないし、むしろただ自暴自棄になる恰好の理由を得るだけで、かえって事態を悪くしかねない。

あらゆる原因によって自分の人生が歪んでいるということは事実である。しかしそれらが諸悪の根源であり、それらがすべて悪いので一切の責任を取らせるべきだとか、だから自分は悪くないと思うのはほとんど無力な解釈だ。なぜならそう思ったところで他人は非を認めないだろうし責任を取らないからだ。誰が良い悪いではなく、結局自分が行動して少しずつ状況を改善していかなければ何も変わらないのである。

他責をするくらいなら改善のために手足を動かせという理屈は、自分の弱さと向き合う心の強さがなければ実現することはできないだろう。大抵の人間は自分のように都合悪い部分から目を背け、自分は悪くないという信念の中で生きたがる。

だが自分はそうした言い訳のために余生の大半を過ごすことをやめたのである。仮に他人に原因があるとしても、自分はそこで折れずに奮闘するという強さを持たなければならない。そのためには世界を自他の責任と善悪をめぐる戦いの場として捉えるのではなく、自分に降り注ぐあらゆる問題の解決の場として捉える必要がある。