人生

やっていきましょう

476日目

数年前を振り返ると相当なストレスや惨めさを抱えながらどうにか耐えていたという事実に驚かされる。冷静に考えれば精神を虐待しているようにしか取れないことを、自分は課すべき義務だと思っていた。今ではもう同じようにはできない。

ひとつの例を挙げると、自分は自分の好き嫌いを極力否定していた。とくに嫌いという感情を完全に排除しようと努めていた。何にでも興味があるような振りをすることで、自分は様々な人間と対人関係を構築することができると考えていた。

しかし皮肉なことに、今ではその反動であらゆるものが嫌いになっている。嫌いというか、憎しみに近い感情を抱いている。自分は興味があると偽らざるを得なかった対象に限らず、興味があるとも無いとも言えなかったものに至るまで、ほとんどすべてが嫌悪の対象になっている。

これは自分を偽り続けた結果なので受け入れるしかないのだが、その多大な責任を一人で抱え続けることに自分は限界を感じている。それでそうせざるを得なかった状況を生み出した外部に責任を転嫁したくなる衝動に頻繁に駆られる。その度に相手は悪くない、自分の選択が間違っていたと言い聞かせるが、惨めさが理性に勝る機会が次第に増えてきている。

似たような心理的な問題をいくつか抱えている。精神面で無理をした反動が今になって襲ってきている。自分でもどうすれば良いか分からない。自分の負の感情が単なる偏りにすぎないということを暴き出すには根拠が十分にある。それらを材料に自らの判断の欠如を責め立て、この不都合な偏見を矯正することもできる。

しかしそのことで自分が実際に怒りを感じていた、惨めに感じていた、苦痛に感じていたという内面の事実が無かったことにされる。その発生が正当性を欠くものであってもなくても、自分は確かにそう感じていたという事実が失われる。そのことで、余計に自分を追い詰めることになりはしないかと最近思い始めている。

からしばらくは感情を放置することにした。自らの感情を、否定するのではなく受け入れる。ただし理性の判断を失わないという条件を課した。これは相当難しいことだ。感情に気を取られているうちは理屈が通らず、頭で考えているときは自らの感情を軽視している。両立は難しい。だがそれでも自分はやらなければならない。

感情を受け入れつつ理性のアンテナが狂わないようにするにはどうすればいいか。適切な解のひとつに理性を捨てて感情だけで生きるというやり方もある。これは自分の理想のひとつだが、これまで自分が生きてきた中で、こうした人間達の身勝手な感情に対して強く不当に感じてきた自分を今更否定することはできない。先のことを考えず感情で生きられれば楽だと分かりながら、そうはできない弱さが自分にはある。