人生

やっていきましょう

746日目

先日は走り書きだったのでうまくまとめられなかった。改めてこの問題について考える。

自分の抱えている根本的な問題のひとつに社交不安がある。人と関わると息が詰まり言葉が出なくなる。1人で書けば100伝えられることを、相手を前にしては1も伝えられない。

それは他者を前にしてどのように振舞ったら良いか分からないからだ。自分には人と話せるような話題をいくつか持っている。あるいは何かしらの問題について自分の意見を持っている。しかしそれが相手の誤解や偏見を招いたり、相手にとって迷惑になるかもしれないと考えてしまう。

ここで注目すべきことは、自分は相手のことを何よりも考えていながら、相手のことをまるで見ていないということである。常に自分が想定する相手の心象の可能性(しかもネガティブな想定)ばかりに振り回され、相手自身がどう感じているかを見ていない。そしてその心象はあらゆる他者の場合において不変であると考え過ぎる。

つまり自分は他者という存在を、自分にとって常に不利に働くようなひとつの巨大な現象として捉えている。こうしたものの見方は陰謀論者のそれに類しており、彼らがなぜひとつの組織に狙われていると思い込むのかが自分にはよく分かる気がする(もし自分が自己批判的な態度を維持する努力をしてこなければ、彼らのようになっていた可能性がある)。

しかし彼らも自分も他者という存在を単純化して捉えていることに気がついていない。他者とは集団である以前に個人である。集団とは学校のクラスを見れば分かるように、バラバラな方向を向いた個人の集まりがかろうじてひとつにまとまっているようなものである。程度の差こそあれ、すべての人間がそう簡単にあるひとつの方向を目指す訳がない。そのレベルになると人間の欲求に直結したものにならなければならないが、一国の代表である訳でもない自分が、それほどまでに他者から嫌われる理由などあるだろうか。

自分は他者という存在を集団単位ではなく個人単位で捉える必要がある。ある人間は自分に対して否定的かもしれないが、彼と比較すればさほどそうでもない人間もいる。あまり信じられないが、自分に好意を持つ人間もいるかもしれない。他者は様々であるということを認識すべきだ。

その上で彼ら全員に自分を合わせようとすることを諦める必要がある。あらゆる人間のあらゆる価値観について配慮していては、自分は何も言い出せなくなってしまう(それが社交不安の要因でもある)。自分はまず自分に合わせるべきであり、他者は二の次である。自分はもっと自分が有利になるよう振舞って良いのであり、そこで対立や不和が生じても、歩み寄りの意思がない相手には譲歩する必要はない。

ある程度自分の都合で生きられるようになれば合わない人間とは距離を取るようになり、社交不安も治まるだろう。おそらく多くの人間はこのようにして社会生活を送っているのだ。

だがそうなるにしても、次のことは忘れないようにしたい。それはどれほど合わない人間であれ、人としての最低限の敬意は持つということである。分かり合えない人間であれ、少なくとも相手の価値観に理解を示すようになりたい。共感こそしないが、理解した上で適切な距離に置く、このようにして自分は他者と関わっていきたい。