人生

やっていきましょう

760日目

ヘルマンヘッセの『車輪の下』を読んだ。読後の感想としては、数年前に読むべきだったと思った。この話はある少年の挫折の物語であり、絶望の渦中にあって自らの人生に真剣に向き合っていたかつての自分にこそ何かの糧になり得ただろう小説だった。今ではこの物語は遠い出来事のように感じるが、しかし確かにこの物語には自分の人生と重なる部分がある。

この小説が刺さるのはおそらく学生時代のある時期に真剣に努力と向き合った経験のある者、そしてそこである程度の成績を収め僅かでも先の見えない未来への希望を抱いた者、しかしそのために青年期を犠牲にした後悔で苦しむ者、あるいはその過程で自分自身を見失い人生に挫折した者だろう。若いうちに何かの難関を突破していわゆる「そこまでの人間」にしかなれなかった者は自身も含め数多くいるだろうが、こうした話は中島敦の『山月記』同様、競争社会の渦中においては普遍的なテーマのひとつとして読者の心に影響を与え続ける。

自身も受験を突破してきたから分かることだが、こうした成功とは一時的なものでありその先の道を保証するものではない。ある時に成功を収めても、その後にはドロップアウトするかもしれない。自分は中退こそしなかったが、就職活動では挫折した。あるいはそこでうまくいっても企業風土に合わず退職する者、もしくは出世レースに破れ苦しむ者もいるかもしれない。学者であれば、どれだけ論文を引用され輝かしい成果を残したとしても、その次に結果を残せるとは限らないのである。

挫折の在り方は様々である。ハンスの場合、自らに敷かれたレールに懐疑的になった。おそらくそれは友人のハイルナーの影響が大きい。ハンスは街一番の神童として世間からの期待を一心に背負い神学校にやってきたが、それは彼自身が望んでいたことというよりは、不安からそうさせられていたと言うべきだった。おそらく彼自身は学校が期待する成果を残すことができただろうが、学校は彼の不安を解消するどころか、勉強を詰め込むばかりで余計に不安を煽っていた。だから同じ境遇にありながらそうした心の重責から自由な存在であるハイルナーに親しみを感じていた。本来のハンスは自然を愛し釣りを楽しむ素朴な少年だった。彼の影響でハンスは次第に勉強をする意味を失い、成績が悪化するにつれ教師からの期待を失った。しかしそうある自分を肯定できたのはハイルナーがいたからである。だが後に彼は退学され、まもなくハンスも退学する。

自分自身もハンスと同様、社会からの期待と自分自身であろうとする思いの中で揺れていた。しかし自分はハンスとはまた対照的であるように思った。

自分は元から社会に期待されておらず、おそらく自身の会話能力の問題で社会的に低く見られていた。それでも自分は社会から期待されることを諦めたくはなく、社会に求められる人間像に沿うよう努力していた。だがそうすればするほど、自分は硬直し、顔はこわばり、声が出ず、何も言い出せなくなる。つまり自分は本来的な自分ではなくなっていくのである。自分の本性はハンスというよりはハイルナーの方に近い人間だと感じるが、そうでありながら自分は社会からの承認を得ようとして自らの独自性を捨ててきたのである。その結果自分は社会の期待に沿える人間にもなれず、また自分自身の独自性を素直に受け止められず、中途半端に歪められたまま、自らが社会の代弁者として自らの特性を否定するまでになってしまった。

この小説が今の自分に響かないのは、自分が社会の期待から距離を取り内向きの関心に篭り始めているからだ。おそらく社会との関係から目を背け元から自分自身の殻に閉じこもっていることを良しとする人間にはこの話の苦悩は身近に感じられないだろう。この話のテーマは社会と自己の軋轢なのである。

しかし今回この本を読んで改めて自分はかつて自分が車輪の下にいたことを気付かされた。そしていずれは社会と正面から向き合わなければならないと思った。だが自分はかつてのように他者を酷く恐れ、そのために自分を歪ませるべきではないだろう。生きるということの利点のひとつは僅かであっても修正が効くということである。自分はこれから先も生きていくつもりなら、何かを変えていかなくてはならないだろうと思った。