人生

やっていきましょう

785日目

今日は自分が数年前に開発した箇所を修正した。その場面のセリフには違和感しかなかったので、思い切ってすべて修正した。その際、数年前に残した自分の粗は何が問題で、どういう点で違和感を抱かせるのかについて少し振り返ることにした。

以前同じことを書いたかもしれないが、かつての自分は登場人物のセリフを作者自らの思考や感情に即して書くことを自明のものとする傾向にあった。その登場人物が誰であれ、自分が納得し、自分が率直に出してしまう反応に即して、すべてのセリフが生み出されていた。

これがなぜ問題かといえば、そうした作者の傾向を自明のものとすることで、多くの登場人物もまた同じ傾向を示すことになるからだ。主人公も、主人公の友達も、街の人も、敵も、ボスも、すべてが作者自身と同じ傾向にあるので、例えば全員が話し合いで極力論理的に合意を得ようとするし、納得できない部分はどこまでも追求してしまう。

セリフの精査を続けていくと、こうした論理的な手続きのつまらなさを当時の自分もわかっていたらしく、何とか別の方向性を介入できないかと模索していたようだ。そこで当時の自分は、自分の率直な感情を色々悩むことなくそのまま表現することにした。

しかしそのことがかえって違和感を強調することになる。このとき自分は理性的な表現と感情的な表現をセリフに混合させていたが、この混合は各々の傾向をもつ登場人物をうまく配置することで表現されているのではなく、すべての登場人物がまったく同じように、理性と感情の奇妙な混合物を内面に抱えることによって表現されていた。これがどういうことかというと、ある場面では硬い文章が延々と書かれ、かと思えば信じられないほどに幼い感情が突飛に出現する。

おそらくこれは自身がこのゲームの開発を箱庭療法的に向き合ってきて自然と演出されてきた自らの傾向であるように思う。感情面での発達が阻害され、理論武装で自分の周りに砦を作る。半生を自らの内面に閉じこもって生きてきたので、世界は自分だけであり、他者とは自分からみた他人であるにすぎない。だから以前書かれていたセリフには内面的な気味の悪さが感じられていた。

こうした歪んだ認識に対してできるだけ修正しようと、今に至るまで努力が施されている。この心境の変化はこのゲームを操作するプレイヤーの視点を重視しようという思いから生まれた。自分がもしこのゲームを遊んだら楽しいと思えるかと考えた時、率直に言ってつまらないという感想以外出てこなかった。ストーリーが曖昧、セリフも曖昧、キャラクターの個性も曖昧、すべてが曖昧なまま、申し訳程度に敷かれているストーリーラインを辿るだけの作業だった。

そのためこれらの曖昧さをなるべく軽減し、ゲーム全体をより明確にするという作業が行われた。それが1年前になる。この方針転換は今でも妥当だったと思う。明らかに以前のものと比べて面白味が増してきた。

 

これは自分が表現したいものが変わったということだろうか。かつては内面にある葛藤や苦しみが創作の原動力であり、そこから生まれるものを表現しようとしていた。しかし今はどうすれば面白さを追求できるかということ以外頭になく、かつて表現しようとしていた自分の内面の歪みからは極力離れようとしている。

いずれにせよ早いうちに完成させなければならない。これ以上遅らせるとかつて開発したものと新たに開発したものが再び適合できなくなり修正を迫られることになる。