人生

やっていきましょう

887日目

自分の言説がそれほど逸脱したものにならないのは自尊心の低さゆえであると考える。自分の考えが間違いや曖昧な部分を多く含むために自分の考えは素人意見の域をでない、単なる市井の思いつきであるという事実を正視できているのは、自分というものがそれほど信頼に置けるものではないと考えているからである。

これは10年前の自分に対する反省でもある。かつて自分は自分の考えに絶対的な自信を持っており、当然自分が間違っているはずがないという誇りを持っていた。自分の判断力、自分の価値観、そのすべてが自明であり正当だった。

しかし実際はそうではなかった。自分は本当に何かを知っているつもりになっていただけだった。うわべだけを知った気になっていて、何も理解していなかった。

そのことを深く悟ったのは2018年の精神的な挫折を経験してからだ。自分はこれまで幾多の挫折を懸命に乗り越えてきたという浅はかな自負が吹き飛ぶくらいの痛みを覚え、自分という人間がいかに多くの誤解と無理解を抱えた存在であるかを知った。

仮に自分が10年前のまま今日まで生きてきたとしたらどうなっていたか。当時の自分の程度を見て率直に言えば、いずれどこかで挫折していただろう。しかし運良く順風満帆に人生を送れていたとしたらどうなっていたか。相変わらず自分の判断に絶対的な自信を持ち、他人と衝突したら相手が間違っていると素朴に信じていたことだろう(しかし面と向かってそれが言えないのは当時も同じだ)。

こうした人間にはこれまで何度も遭遇してきたが、何もそれほど珍しいことではない。あの時自分の中の自信を捨てず、自分を悔まずにいた姿がこれなのだ。純粋に挫折した経験の無さから湧いてくる自信なのかもしれないし、挫折を経験した上で死にかけた自己を守るために虚勢を張り、自信を纏わずにはいられないのかもしれない。あるいは生粋の好戦家で、挫折を何度経験しようとも自尊心が変わらず残り続けているのかもしれない。いずれにせよ、自信を失わずにいたという点で自分とは異なる。

自信家の持つ問題は、信念を事実以上に優先させかねないということである。そしてそれが過激化した思想、逸脱した言説の土壌になる。例えばAとBの思想があったとき、両者を踏まえた上でAとはならず、頭からAが正しくBが間違っていると決めつけるようになる。自信は時として人を盲目にする。

しかし彼らは自信の喪失者が抱きがちな不安を対処する術を有している。他を拒絶し自尊を得るというのは、不安を解消するひとつの有効な手段である。自分が挫折を経験して以降深刻な不安に悩まされ続けているのは、この拒絶を行えるだけの自信すら喪失しているからだ。この種の不安もまた人を盲目にする。

不安と自信の問題は長い間考え続けてきたが、現時点での答えは自信家の持つ過度な信仰心の有毒さを自覚し警戒しながら、その中でも有効な部分を学習し自らの内に取り入れることである。

自分は自尊心を完全に失い、今や自己効力感を抱けずに彷徨い続けて3年が経つ。精神の安定は比較的維持されているとはいえ、自分の人生を自ら方向づける動機を持つことができないでいる。それは自信が足りないからだと大雑把に言うこともできるが、もう少し具体的に言えば自分の判断や価値観を信頼していないことが主な原因である。

そのため自分がやるべきことは、自分の考えに確かな自信を持たせることである。確かな自信というのはすなわち根拠ある自信であり、自分の思索の深度や能力の強化によってこの判断は妥当である、この価値観はうわべだけのものではないと思えるものを増やしていく。そのようにして積み重ねたものは比較的信頼に足るものであり、自分の自信の糧として利用することができる。

巷では根拠のない自信を抱くことが良いとされるが、自分はそのようにして得られる自信をとうに失っており、僅かであろうとも根拠のある自信を積み重ねていった方が自信に繋がると考える。