人生

やっていきましょう

972日目

昨年や一昨年に比べ、今日はどんな1日だったかを気にすることがなくなった。つまり、その1日というのは自分にとって浪費したようなものだった。記憶に残らない1日、進展のない1日だった。そうなると、何を書いたら良いか分からなくなる。

記録に必死になっていた頃は、自分の1日から生きた実感が失われていくことに耐えられなかった。当時は完全に壊れており、日常の出来事すべての意味が自分から剥離され、どうにかして自分がいまここにいることに安心感を得ようとしていた。

今ではもうかなり安定していて、正常な自尊心を取り戻しつつある。その原因かあるいは結果なのかは分からないが、自分は自分自身と向き合うのをやめてしまった。思考ではなく、外の物事に目を向けるようになった。自分の最近の記録はほとんどapexか創作の話題に当てられている。自分の考えではなく、自分でない何かについて考えている。それが自分の安定に何かしら繋がっていると考える。

この外向的な思考が支配的になるにつれ、その日1日が自分の記憶に残らなくなってきた。単純にサービスを消費し満足したということ、それは自分にとっての主体的な意味の獲得というよりは意味に対する忘却だった。酒で苦痛を和らげるように、自分の苦痛を忘れようとしていた。だから最近の出来事はほとんど何も記憶に残っていない。

記憶できないというのは能力の欠損というよりは、自己放棄の結果記憶する意思が持てないと言った方が適切だと思う。精神は安定し自尊心が回復しても未だに意思の確立には至っていない。

意思の欠落、これは2018年の挫折よりも遥か以前、それこそ小中学校の頃から抱えていた問題である。失敗や叱責を恐れ、自分を確立できず他人の指示がないと動けない。自分の考え以上に場の調和を優先する。そんな子供時代を経て、いつしか自分というものが自分の判断で何かを意思するということができなくなった。

自分の人生、自分の主観的な世界観は、軍隊で言うところの「休め」が永遠に続いているような状態である。自分が自分の人生から、こんなに楽しいことがあったと記憶しようとすること自体できない。自分が楽しいと思ったことを楽しいと表現することもできない。自らに禁ずるという使命だけがあり、それをただ今でも忠実に守っている。虐待を受けたわけでも誰かにそうしろと言われた訳でもなく、自分自身で意味も分からず首輪をつけている。

このような自分の内面の歪みと向き合うことに自分は疲れてしまったのかもしれない。向き合わずに忘れることで問題を見て見ぬフリをする。それで問題が解決されたわけではないが、気分が楽になる。

意思の欠落は正当化できないし、すべきでもない。結局のところ意思を回復する試みを続けることが大切だと思う。そのためには忘却のぬるま湯から一歩外に出て、自分の感情と素直に向き合う必要がある。