人生

やっていきましょう

922日目

何が面白いのかまったく理解できないものに笑っている人間を見かけると、自分の感性など所詮限られたものでしかないということに気づかされる。そういう笑いは本当につまらないからやめようと予め自分が避けていたような笑いであっても、ゲラゲラ笑っているような人間が中にはいるのである。

当たり前のことだが、自分と他人の感性は必ずしも一致しない。これだけ文化が多様な時代にあると、個人単位であっても相手が自分の想定を超えた背景を持ちそれに面白さを見いだすということがあってもおかしくない。自分が古いと思っていたネタが彼には新しいかもしれないし、その逆だって起こりうる。

つまらないと感じるのは作品がつまらないからではなく自分がつまらなくなっているのだという詭弁をよく耳にするが、クリエイターのスランプが当人の反復によるものだとすればあながち間違いでもないように思う。作り手は手持ちのネタを何百回と反復して推敲するために、ネタそのものに飽きてしまいつまらなく感じるのだ。しかし一方で、そのネタを見慣れない多くの人にとっては純粋に楽しめるものになっていることがある。

あるいは長年の経験から自分の中で笑いの文脈やスイッチが生成されてしまっている場合、その笑いが極めてガラパゴスなものになってしまっている可能性もある。自分の中で至上の価値を持つ笑いが、その他大多数にとってはつまらないものに映るかもしれない。

いずれにせよ笑いは相対的なものである。しかしそんな時自分は、あろうことか自分の感性が世間の感性と一致していないことに不安を覚える。自分は事実として世間の感覚から明らかに乖離していながら、彼らの感性を絶対視し、本心ではどうにか異常者でないことを示したいと思っている。しかし日頃の自分を見れば分かる通り、自分は世間から見ればただの異常者なのである。どう自分を捻じ曲げても馴れ合いの笑いには馴染めないし、宴会じみた社交の笑いも面白いとは思えない。テレビの笑いもまったく笑えない。自分が笑うのは情報の海に漂う一方通行でどうでもいいようなインターネットオタクのジャンクな笑いであり、結局のところそれが自分なのである。

自分はこう考えてみても良いかもしれない。自分の作品は限られたものであっても良い。自分が世間の感性からズレた人間ならば、どこまでも開き直って己の感性を追求していけば良い。他人に認めてもらおうなどと考えるから本心が伴わず思うような創作ができなくなる。万人は皆無価値の土俵の上に乗っかっている。自分は初めから価値がなく、またこれからも価値が無い。ならば他人に価値を認めてもらうことに何の意味があるのか。

これはいわゆる逆張りであってはならない。自分の作品の価値が認めてもらえないから敢えて認めて貰わなくても良いと思うべきではない。それは他人の価値観に左右されている証である。時には他人の価値観を受け入れ、また時には自らの価値観を優先させる。いずれにせよその選択の主体が自己であり続けるよう努めることに意味がある。