人生

やっていきましょう

537日目

所謂人生のネタバレ的な情報がネットに溢れはじめたことで、人生というものに一切の希望を持つことができなくなっている人間が何人かいる。自分もそのうちの一人であり、このような状況にあっては自分がどうして生きているのか分からなくなっている。

こうしたネタバレというのは、例えば公正世界仮説は存在しないということ、人間の能力や知性は遺伝の影響を免れ得ないということ、更には出自の貧富によって機会や能力の差が歴然と広がってくるという事実を突きつけ、人生の大半は運で決まり、どうにか維持されているぼんやりとした自己効力感と未来への期待は失敗と失望の蓄積と健康の乱れによって容易に崩れ去るという現実を暴き出す。落ちぶれた人間は容易に這い上がれない、無理やり努力して這いあがった者は生存者のバイアスに支配され、極端な能力主義に目覚める、品位も能力も得るのは育ちの良い人間という身もふたもない話もある。女を雑に扱う男がモテて、誠実な男はモテないという話もある。

こうした話のすべてが信用に足るとは限らない(また情報が断片的である主張の論拠とするには材料が乏しい)が、多くが自分の生活の中での観察と直感に適うものだ。こうした鋭い刃を自分に突きつけ、場合によっては心の深い部分に差し込むということを何度か繰り返すうちに、生きる意味を失って常に虚無感を抱くことになった。

明らかな事実を言えば、生きるということは事実に即した意思決定を必ずしも行うためだけに存在するわけではなく、自分勝手な妄想を糧に生きることを制限する法はない。したがってどうせ生きるなら気楽に生きようという人々の考えには理屈として納得できるものがある。

ではなぜ自分はそうしないのか。なぜ自分を誤魔化すことを自ら禁止しているのか。つまらない事実を言うなら、自分を誤魔化したことで酷く惨めな思いをしたということが主な理由だ。これまで経験してきた大きな失敗の多くは自分を誤魔化したことによって生じたものばかりだ。それらは不安定だった自分の理想のアイデンティティを守るために抱いた哀しい妄想だったが、それらが原因でことごとく痛い目にあってきたために、できる限り誤魔化しを捨て、ただ事実に即して生きようと決意したのだった。

自分は以来事実を誤魔化さないということが生きる目的になっている。自分が自殺しない理由は、自分にとっての自殺は誤魔化しを受け入れてこの世から退場することだからだ。自分もまたそうするべきか大いに悩んだが、結局悔しさの方が勝り生きることにした。

ここで問題となるのはできるだけ事実を誤魔化さず生きるという決断をしたことである。仮に自殺をしたならば、自分は自分の理想ともいうべき自己のアイデンティティを最後まで守ることができたはずだ。それがどれほど歪んでいて、他人に悪く思われるものだろうが、自殺というのは他者の絶対的な拒絶をもって自らの価値観を保存する行為であると自分は考える。それゆえ死の誘惑には逆説的に救いの香りがする。

だが自分はその選択を放棄した。誤魔化しという固有の拠り所を捨てた。そのことが問題だ。虚無を能動的に引き受けて生きるということには救いが一切ない。自分は無知で無能であるということを誤魔化しを一切排除して正面から受け止め、しかし努力による改善の可能性は自己効力感という幻想ではなく虚構の暴露という事実に繋がっていることを認めなければならない。

この明るい絶望には白昼夢のような狂気がある。生きるということに対する文字通り絶望的なポジティブさというのは、自分が主体的に生きているという実感を失わせ、なぜか生きているという奇妙な感覚を自分にもたらす。サルトルがその作中で述べていた<吐き気>に近いものだ。

この奇妙さは、現実離れしていながら、しかしまさにそれが現実であるという倒錯から起こる。実際は雑な忘却と意味や価値への没頭によって見えにくくなっており、それこそ現実だと自分たちは思い込んでいるが、それは自分という主観を介したものであるということをしばしば忘れている。その主観がうまく機能しなくなったとき、事実は奇妙な変形をもって自分に迫ってくる。

この違和感の過剰のなか自分はどう生きるべきかということを考えなければならない。しかしおそらく結論は見えている。本当につまらない話だが、最近の自分はこの違和感を忘却することが増えた。スマブラやapexをやってゲームを作っている間は、そのことだけに没入できている。この1年を振り返ると、そのほとんどが没入と忘却に費やされてきた。したがって自らの没入に自明さが生まれ、元の「生きている感覚」を取り戻しつつある。

自分を守るために自殺するのでもなく、自分を捨てて違和感の冒険に身を投げるわけでもなく、結局目の前のつまらないことに没入することになったというのはつまらない話だが、それが通用する内は甘えてもいいのではないかと思う。だがこの感覚は脆い。結局いつかは自らの生死の問題と向き合わなければならない。その時自分は自死を選ばず、再び違和感の過剰に身を投げることになるだろう。