人生

やっていきましょう

830日目

自分の文章は文章として成立しているのか分からなくなる時がある。できるだけ読んで理解できるような文章を心掛けているつもりだが、それでもそれは他人が読んで理解できると「自分が」認めている文章に他ならない。その文章が他人にとって意味の通じるものであるかどうかは、直接他人に聞いてみないと分からない。

そもそもその他人にしても千差万別であるという前提を忘れてはならない。ある人にとっては意味の通じるものであっても、別の誰かにとっては意味が分からないものであるかもしれない。意味の通じる文章であるためには論理構成がしっかりとしていて、言葉の誤用がなく、ひとつのセンテンスにひとつの話題を置き、書いた本人が一読して理解できるものであることが重要だ、という見方さえ、自分という一個人の見解にすぎない。

文章の意味についてしばしばこのように考えるが、同時にその文章の面白さなどについても同様のことを考える。創作でセリフを書いているとき、自分では面白いと思って書いたものであっても、はたして本当にそれは面白いものなのか分からなくなる時がある。結局は自分が面白いと思う物差しで勝負する他ないのだが、そう自分が感じる面白さというものが客観的に見てまったく面白くないものであるかもしれない、ということに自分は常に不安を抱いている。

自分はテレビに出ているお笑い芸人が精神病にならないことを不思議に思う。彼らは自分が生み出している笑いがまったく面白くないかもしれないと思うことはないのだろうか。あるいは、自分が笑わせようとする意図を自ら先んじて言語化してしまい、その意図を他人に仕組もうとする傲慢さを自覚している自分自身に興ざめしたり、身のすくむような思いをしないのだろうか。

この種の葛藤は不毛であり、あれこれ考えるくらいなら次のように妥協をしても良いと思う。面白さのフックは様々にあり、それが引っかかる人もいればそうでない人もいる。その笑いを不快に感じる人もいるだろう。そうであるならば、表現者は自分の笑いを面白いと思ってもらえる、自分と近い感性の人間に笑ってもらえることを良しとすべきであり、自分の面白さの感性と異なる人間をどうにか笑わせようとすべきではない。そう割り切ることで、自分の中の表現すべき面白さが取捨選択され、自分に無理な労力を強いることがなくなるのではないか。

確かにそう思うことで、多少は自分が感じる面白さというものに向き合うことができている。だが本当のところを言えば、そのように開き直って生み出した面白さほど醜悪なものはないと自分では思ってしまっている。なぜなら自らの信仰に突き動かされた表現ほど推敲が施されておらず、自分の関心をただ押し付けただけのものであることが多いからだ。これは自分自身の経験がそう言っている。かつて自分は自分の面白いものをひたすら全面的に肯定しようとする暴挙に出た。しかしそうして生まれたものは、その瞬間は面白いものであっても、時が経ち自分の関心が変化するにつれ見苦しいものになってくる、とてもつらいものだった。

はたしてこれが本当に面白いのか、という徹底的な懐疑が自分を前進させる。これは表現者にとっては邪道であるかもしれない。漫画を描く人間は漫画が誰よりも好きでなければならないかもしれない。しかし自分は、漫画の可能性を切り拓くために誰よりも漫画が嫌いになった人間、自らに自己否定の圧力をかけ続けた人間に共感する。自分はそういう人間であるからだ。

そしてやはり、そうして否定し尽された自分という死体の山の上に、面白さの根拠と言えるものが僅かに見いだせるかもしれないと思った。だからこそ、その否定の先に生まれたものが全く面白くないものであることに自分は耐えられないのだ。だがそれは普通に起こり得ることであると自分は認めなければならない。