人生

やっていきましょう

1050日目

ある俳優が演技の壁に直面しているという話をネットで見た。本人は様々な役を演じるが、どれも自分が経験してきたことではないために、どう演じたら良いか分からないというものだった。

これは自分の創作についても言える。経験したことの無いものについてどう表現したら良いのか分からない。何かを演出しようとしても、経験の無さから何も想像がつかないのである。結局誰かの作品の真似事をし始め、表面的な表現に終始する。

自分の浅はかさについてどう向き合えば良いだろうか。ひとつの答えは、視野が狭く見識が浅いながらも、自分の経験を深く掘り下げることだ。

自分が浅はかだと思っている時、自分は理解の範囲を総合的に捉えてしまっている傾向にある。全体的に見れば自分の理解などどれも中途半端なものでしかない。しかしある限られた分野であれば、何かしら理解できていることがある。

例えば自分は省庁で働く国家公務員の仕事について何も理解していない。したがって国家公務員や省庁のいざこざを自分の作品に出すことができない。しかし小学生や小学校を自分の作品に出すことはできる。そこで自分は6年間暮らして来たからだ。小学校がどういった構成員で成り立ち、どういった組織図が描け、そこで想定されるドラマがどのようなものになるかを何も見ずに答えられる。これが経験の成せる技だろう。

ある俳優はひとつの役職に対して人生の大半を費やしている。何十年もその役職を演じ続け、ついにはあの役といえばこの人というイメージが定着してしまっている。これが必ずしも正しいというわけではない。しかし先に述べた俳優に対するひとつの答えになりそうだ。俳優という虚業に対して人生の大半を捧げていれば、それが現実と分かち難くなってくる。その経験ゆえに登場人物の理解は誰よりも深くなり、その俳優だけが確たる演出を可能にする。

自分の経験を掘り下げることで見えてくるものがある。自身の一般的な経験の浅はかさを嘆くのではなく、自分の人生で培った経験そのものを表現すれば良いのである。学生を演じるにしてもステレオタイプを演じる必要はなく、自分にしか演じられない学生を演じれば良い。経験が乏しいにしても、その浅さが中堅には演じられない青さを演出することがある。経験が無駄であるということはほとんどない。

今の自分にできることは沢山の経験を積むことである。自分が表現したいと感じる分野で、現時点の自分が何も知らないからといって諦める必要はない。様々な活動を通じてよく学びよく吸収すれば、昨日の自分よりは理解の幅も深さも広がる。理解できていないのであれば、理解できるところまで学習すれば良い。幸い今の時代はネットがあるからある程度の部分は知識を収集できる。そこから表現できる範囲が広がっていく。

それらは必ずしも現実の再現である必要はない。創作は何を表現してもよく、無知を曝け出した駄作もまた創作と呼ぶ資格がある。他人の評価を意識して何もしないのは愚かでしかない。

自分自身の経験を深掘りするか、あるいは浅はかな自分を経験によって変容させるか。いずれにせよ経験が自分の表現を変える鍵であるように思う。