人生

やっていきましょう

1134日目

昔から自分は口で情報を伝えることが苦手だった。何から話せばいいか分からなくなり、何を話せばいいか分からなくなる。いつも迷いの中に飲み込まれ、頭が真っ白になる。しかし誰しもそういうわけではないらしい。

口と文字で情報を伝えるということは根本から性質が違うということが自分に理解できたのは最近のことだった。口頭というのはどちらかと言えば厳密な情報の吟味、整理、議論のためのものというよりは、印象付け、感情の誘導、アピールといった演技のためのものであるように思う。自分ははじめこの演技を欺瞞であり、不誠実であると単純に思っていたが、多くの人はこの演出を当然視している。

このソーシャルな話術が当然のようにできる人間ではない自分にとって、世間は居心地が悪い。話の中身をよく聞いてみると大したことを言っていない人間であっても、大したことのように聞こえてしまうのであれば、それだけで価値がある。

自分が話下手である最大の原因は、自分の言っていることが妥当であると本当に信じられないからだ。極めて曖昧な知識と理解の上に自分は立っていて、それが大抵の場合不適切なものであるということだけが分かっている。吟味に吟味を重ねてようやく僅かな理解が得られるだけというのが自分である。だから何を言ってもどこか間違っているかもしれないと考えてしまう。そのとき自分のミスを探そうとする思考と自分が伝えようとしている中身が衝突して混乱し、思考が停止する。自分が何について考えていたのか一時的にまったく思い出せなくなる。

話術を弄する欺瞞に満ちた人間は、自分の言っていることが100%正しいと思っているか、あるいはその欺瞞に自覚的でありながら、相手に自分の意見が100%正しいと思い込ませようとしている。自分が思っている以上に人は自分の意見というものを絶対視しすぎている。しかしそれは自明のことかもしれない。口を開いて言葉を出した瞬間、その人が言わんとしていることはその人にとって自明でなければならない。そうでなければ「いや、もしかしたら・・・」と思考が一旦中断されなければならない。にもかかわらず世間でなされる多くの会話を耳にすると、大抵が当然のように行われているという不思議がある。

しかし彼らをある程度参考にすべきだと思う。相手と面と向かって話すときは、自分がある程度正しいという前提のもとで話を用意する必要がある。相手が自分の言葉で傷つくかもしれない、相手が自分の言葉を誤解するかもしれない、本当は相手が正しく、自分が間違ったことを言っているかもしれない、こう考えて考えすぎるあまり、自分の意見というものは霧消してしまうのだ。

これをapexに例えるならば、意志疎通の取れない味方に対して味方がこうするかもしれない、自分の指示を無視されるかもしれない、誤解されるかもしれない、余計なことを言ってチームを不利にするかもしれない、などと延々に考え行動を躊躇っているうちに、どんどん不利になって負けるということに近い。

自分が声を出して情報を伝えられないのは、この迷いが原因であるということは疑いようがない。失敗することに対する恐れ、間違いに対する恐れ、他人に怒られる、悪く思われることへの恐れ、これらが自分を委縮させる。そうではなく、自分はこれが妥当だと思ったことにどんどん主張する。何も考えてない人間や、自分が正しいと思っている人間たちがやっているように、他者に影響を与えることに堂々としている。そうすることである程度自分は他者と渡り合えることができるように思う。

何度も言っているが、自分が話せないのは自分に話す能力がないからではない。むしろ心因的なもので、話すということに対して強烈なストレスを抱えているために話せないのだ。このストレスを緩和し、自分が話すことに対して自信を取り戻すことが重要だ。そのために考えるべきことは、自分はどこまで話すことができて、どこからは話すことができないかを峻別して理解すること。無理だとすればなぜそれが無理なのかを自分の中で分析すること。そうすればその無理が踏み込める程度のものなのか、避けるべきことなのかが分かってくる。