人生

やっていきましょう

1194日目

冷笑というものを自分は誤解しているのだろうか。冷静に考えてみると、自分の思う冷笑というのは、どちらかと言えば自虐の意味に近い。冷笑それ自体は他人を嘲るものである。

本来の意味で言う冷笑とは、他人の動機や価値観を見下す態度に表れている。誰かが流行を追っていれば底の浅い奴だと笑い、誰かが夢を追っていればそんな妄想叶うわけがないと笑う。

実際、そうした言葉には現実味がある。何の根拠もなしに他人を嘲笑うことはできない。大抵の人間は夢が実らず、浅はかで、これといった特技もなく、悩みを抱え、些細なミスをおかし、すぐに改善もできないような平凡な人間である。だから冷笑主義は何ごともどうせうまく行くわけがないと思うのである。

しかし往々にして、冷笑家というのは都合の良い見方をする人間もいる。ある特定の集団に属し、その集団の敵対勢力に対して不都合な事実が発覚すると、ここぞとばかりに嘲笑う人がいる。ある程度知識を蓄えた人間が、初歩的なミスをおかす人間をバカにしたりする。

こうした振る舞いは冷笑の原義からすればおよそ納得の行くものである。しかし自分が思うのは、冷笑という刃を自分に突きつける覚悟がなければ、それは良い冷笑とは言えないだろうということである。

自分が嘲笑われる覚悟がなければ、人を嘲笑うべきではない。覚悟と言わずとも、自分の冷笑がそのまま返ってきても不当だと思わないことが冷笑には必要だと思うのである。

これは冷笑というものをひとつの表現として捉えた場合である。表現者として自分は冷笑というものを個人に帰着させたものとして扱いたがっている。つまりある集団や属性を貶め、自己及び自らが所属する集団の優位性を高める目的で冷笑を持ち出すのではなく、自己の劣勢を自覚し、それを嘲る意味において冷笑を持ち出したいのである。すなわち冷笑したがっている自分自身さえも冷笑して、初めて冷笑は完成すると考えている。

こうした捉え方をするのは、自分が冷笑を広義の政治活動や、自己防衛のためのものではなく、パフォーマンス(表現)としての冷笑ということを強く意識しているからだ。

自分の中で冷笑という手段は、作品を面白くするという動機においてのみ正当化されている。なぜなら自分は冷笑という思想には一切の期待が持てないからだ。冷笑とはひねくれた自尊心を救済する魔法の言葉ではない。冷笑とは世の中の自明な価値観の一切が無意味であるということを暴きたて、それを笑いに昇華する営みである。

だから冷笑家の行き着く先は価値観の根底に正当性を何ら見出せない虚無であるという確信がある。それを自覚していながら自分が冷笑に走っているのは、ある種魂の自殺であるとも言える。しかしその自覚によって虚無を楽しむことができれば、自分の生きる糧にもなるだろうとも思うのである。虚無の前に何ら価値観を見出せなくなった人間が次々と自殺していく中、その空虚さに面白みを見いだそうとした先人たちの狂気の飛躍に倣い、自分もまたその琴線に触れたいと考えているのである。