人生

やっていきましょう

608日目

自分の中でいかに意味や価値が失われようとも、行動をするところによって生じる影響それ自体は失われることはない。したがって価値の不在による必然的な結果として何もしない/できないということは、決して自らに救済を与えるものではなく、ただ自らの選択を放棄し、外の都合に流され続けることを安易に受け入れているということに他ならない。

価値や意味が失われたということは、自分を自分として定める一切の根拠を失ったということだ。ただ骨と肉だけがあり、反応があり、動きがある。自発的に生きることなしに自動的に生きることになる。

だがそれは自分が何もしなくていいという理由にはならない。立ち上がらなければ体は衰え、頭は働かなくなり、何もできなくなる。それがそのまま何かをする理由にはならないが、いずれそうなるという事実から目を背け、ニヒリズムの気分の中に没入し、あらゆる問題から忘却し逃げるということは何の解決にもならない。そのようにして救われるのは一瞬であり、いずれそのツケを払わなければならなくなる。

自分はもはや生きるに値しない人間であり、したがって与えられた機会は自分にとって何の意味もなさないという確信はある。自分が生きて第一線に立たなくとも結局は誰かが代わりを務めるということが分かっている。

しかし自分は生きるという決断を下した。この決断は合理的な根拠に基づいておらず、半分は本能的に見出した答えだったが、生きるという決断をした以上、自分は信ずるべき価値の不在を言い訳に逃避することは許されない。自分は自らの意志と自覚をもって自らの生を価値づけなければならない。さもなければどうして自分は自殺を否定することができようか。

自分が虚無に落ちて過ぎ去った2年という歳月が自分に与えた影響を忘れてはならない。本来であればその2年は自分の満足のためにも、何かの成長のためにも使えたはずだった。しかし自分はその期間をただ虚無の没入のためだけに浪費した。その影響は、結局2年前とさほど変わらないという事実を自分に突きつけた。

何もしなければ何も変わらないというのは、自分の価値がどうあれ多少は信頼できる事実だ。次の2年間も虚無と向き合い続けても、おそらく何かが変わることはない。体と頭は多少衰えるだろう。しかしそれが何かの解決にはならない。

自分を価値づけるためには、自分が何かを行動し何かの影響を与えなければならない。それが茶番であるにせよ、自分の素朴な感情として、何かをした自分以上に何かをしない自分を肯定することはできない。

自分自身を価値づけすることの茶番を自分は強く自覚している。なぜなら自分は自分自身の価値をまったく信じていないからだ。その評価は他の価値づけのうさんくささに比べて自分の中で最も正当な部類のものであると断言できる。しかしそれでも、生きるということを肯定しなければならないのなら、価値づけという茶番を自ら演じる他にないだろう。

これは人生の茶番に深く絶望し冷笑を経た上で何も信じられなくなった自分には相当な屈辱であると言えようが、影響という機能的側面に注目することができれば、それほど悪くはないようにも思える。あるいは単純に、考えるばかりで行動してこなかった自分に飽きてきたのかもしれない。とにかく今は何か行動する気にはなれている。