人生

やっていきましょう

1208日目

特に自信に溢れているわけでもない人間が、自己肯定感というものをどうでもいいものと考える事例を見たことがある。当然そんな人間はごまんといるだろうが、自分にとっては意外なことだった。

むしろ自分のような、自己肯定感に飢えて渇望するような人間こそ異質なのではないかとさえ思う。どちらの側の人間もそれなりにいるだろうから、どちらが多い少ないと論じることには意味はないが、自分としてはなぜ自分を肯定しなくて済むことを了解できているのか不思議でたまらない。

自分が自己肯定感に飢えているのは、自分が生来自信のない人間であることに加え、自分がまさにその自己肯定感なるものによって僅かに命を繋ぎ止めていたからだと思う。自分は昔から自分には価値のない人間だということに苦しみこれまでもがいて生きてきたが、その過程で自分を肯定する理由をいくつか得てきた。これらがなくなれば自分は元の不安定な自分に戻ってしまう。それを自分は恐れているのだ。

問題は一度は自尊心を得たということだ。仮初の自信にせよ、自分はそのために自分に期待をしてしまった。結果的にその僅かな自信は崩され、再び自尊心に飢える亡者に戻った。飢えてはいるが分別を捨てられず、他人にそれを求められずにいる。それで余計に拗らせる。

初めからあまり自分に期待をしていない人間や、そもそも期待をせずに済んだ人間、自尊のために自分を痛めつける必要のなかった人間はこうした不安に苛まれることはないのだろう。だが他人を責めるべきではない。自尊心の欠陥に耐えきれず、自己破壊的な人生を送ってきた自分に問題がある。

最近自分は他者と比較せず、自分がどこまでできるようになったかということに自己満足を覚える習慣を身につけた。初めは単なる模倣でしかなかったが、段々とその楽しみが分かりはじめてきた。

しかしふとしたことで劣等感が爆発し、自分の満足や自尊心というものを破壊し尽くして悔しさでどうしようもなくなる時がある。そんな時、ひたすら克服することでしか救いがないように思わされるが、そうやってコンプレックスを解消するために10年以上費やしてきたことはほとんどすべて無駄に終わったということをいい加減認める必要がある。

自尊心に振り回されない人間は、他人のことなどどうでもよく思っているのだろう。おそらくそれは強がりではなく本心なのだ。劣等感や嫉妬に振り回されるのは、自分と他人の境界がはっきりしていない人間だ。自分は自分、他人は他人と思える人間なら、他人のことなどどうでもよくなるのではないか。