人生

やっていきましょう

自分の理解の浅はかさをボコボコにされる経験というのが自分には必要だ。最近そんな出来事があったが、自分の高慢さが折れる良い機会だった。

かつて自分がある時期において理解力に長けていた(少なくともそう自認し、自尊の根拠としていた)ということを自分の能力の前提としはじめると思わぬ事故を招く。重要なのは今自分が実際にどれだけのことができているかであり、もしそれができていないなら自分は今無能だということになる。

こうした事実を常に受け入れ、必要以上に自尊心を貶めることなく、浅はかさが露呈された直接の原因や対象・人物を憎悪するのでもなく、自分の失敗に対する反省材料として利用せよということを常々言い聞かせてきた。この強さこそ自尊の根拠とすべきだと思う。

今回とは別の話だが、ある知り合いは自分の言葉の活用や知識の説明に誤りを確認できると必ず指摘する。それで自分がバカな天然だという事実が暴かれて笑いになるのだが、この笑いは自分の事実に対する耐性と、誤りに対する誠実な態度がなければ成立しないとよく実感する。おそらく少なくない人間が同じように茶化されたら誤解の修正や笑いへの昇華以上に自尊心を傷つけられたことで怒りと敵対心を持つことになるだろう(その危うさを本人が自覚できているか分からないが)。

自分は賢い人間であるということを自尊の根拠とするのではなく、自分が誤解を多く含んだ頭の足りないバカだという事実を正しく受け止められることを自尊の根拠とすべきだ。また自分の愚かさを卑下するのではなく、それを笑いに変えられる自分を誇るべきだろう。

それにしても、最近このことに気づくまで自分は相当な勘違いをしていた。うっすらと自分には理解力があり、なんでも対処できると思い込んでいた。自分を愚かだと思っていなかった。これは自尊感情を回復することに意識が回りすぎていた結果だ。

何度も繰り返すが、自分が賢いという絶対的な前提があるわけではない。多くの過ちと成功を経て、確かな理解、知識、スキルをどれだけ獲得できたかということが問題である。その指標を与えてくれる現実に対して目を背けることは、自分という人間を誤解することに繋がる。そのことを忘れてはならない。

ところで何がなんでも自分の自尊感情を犠牲にする必要はない。悪意に対しては毅然として戦い、不当な指摘には反撃する。その上で己の弱さを受け入れる必要がある。