人生

やっていきましょう

自尊心が弱っていて常に劣等感がある。自分が無知であり無能であることに耐えられなくなってくる。そんな時に世間を見渡すと自信に満ち溢れている人間ばかりが目に入る。彼らにはそれぞれの理解度、能力、性格があるだろうが、なぜか彼らからは自身への不信を感じられない。この理由がさっぱりわからない。

つまり、なぜ彼らは自分自身の選択に対して疑念を持たないのかということだ。自らの価値観、物の見方、それらに抱いた感想、私はこう思っているということをなぜ浅ましくも断定的に口外できるのか?そこに誤解や過信、思い込みがあるかもしれない。

これは自分の恐怖の告白でもある。無知を暴かれ、誤解され、様々な解釈の可能性に耐えうる言説を持てないことに対する恐怖、自分の価値観、解釈など吐いて捨てるほどに汚点が列挙できるという事実を突きつけられる恐怖、それらが恐ろしく、自分が無能のままでいられない不安が自分を神経質にさせる。

しかし観察をすれば明らかなことだが、世の中の大半は自分が劣等感を抱くほどの疑念を持つ必要がないと感じている。自分の趣味を自分が好きならばそれで良いと素朴に思えるのが彼らであり、例えば自分がある点についてスキルを持たない人間であるとしても、それをわざわざ遠くから持ってきて自分はこの能力を持たない無能であると自身に言い聞かせようとはしない。

そもそも自分の欠点に対する関心がなければ自分が劣っていることに思い煩わされることはない。英語ができないから、数学に疎いから何なのだ。できるやつにやらせて自分はその辺に寝そべっていればいい。自分の無能が周囲に迷惑をかけたからどうしたというのか。いちいち目くじらを立てるな。勝手に喚かせておけばいいだけの話だ。

完璧主義はそう思えない。自分は完璧を目指さなければならない。なぜなら自分には自信がないからだ。いつだって自分を肯定できる理由がないからだ。今まですべてを減点法で測られ、無能であるままの自分が肯定されたことがないからだ。外に出て信用されたこともない。

そうした世界観で小さい頃から生きてきた人間は、自分の価値観を、理解度を、能力を、愛されて育った人間と同じようにはなれない。こればかりは仕方がない。歪みを生んだ環境と、それを克服出来なかった自分が悪い。自分の人生はマイナスでしかないが、恵まれた他人を責めてたところで惨めなだけだ。

ところで主に対人面の話だが、人は自分が思うほどにこちら側の理解度、価値観、能力を試しているわけではない。またそれらに対してそれほど興味があるわけでもない(あるとすれば、試すという明確な意図を持った人間か、似たような心理的圧力の中で不安定になっている同類くらいだろう)。

彼らの関心は自分に有益か、自分の興味を惹くか、面白いか、楽しいか、そのくらいである。劣等感に振り回されて情報量を極端に増やした理論武装というのは、確かに自分の繊細な心は守られるかもしれないが、人の関心を喚起させるものではないということを知るべきだろう。自分は他人と話しているというよりは自己弁護をしており、そのズレが社交に対する不適応を招き、そのため更に劣等感を抱くという悪循環をもたらす。これでは自己否定の泥沼からは一生抜け出せない。

とはいえ何もできないわけではない。自分の劣等感は変えようがないが、抑えることはできる。自信の無さが自分の劣等感を招くのだから、それが勝手に暴走しないように自信を持ってくればいい。

自信の供給源として最悪なのが他人からの好意や賞賛で、自分はそれを期待して散々な思いをしてきた。競争という発明は自尊心を得るには本当に素晴らしいものだが、執着がひどくなり心が荒んでくる。

雑な連想だが、他人を巻き込んだ自尊心を巡るあらゆる活動は皆ギャンブルであり、自信に飢えた人間が一発逆転を狙ってやるものではない。期待にしろ競争にしろ、これらはある程度自信のある人間が自信を増やすために遊ぶ娯楽であって、貧しい人間が苦しい思いをしてやるものではない。やっても惨めになるだけだ。

自分は自信に貧しい人間だったからギャンブルの中でしか価値を見出せない人間だったが、ギャンブルを心から楽しむためにはある程度の地盤というものが必要だった。そのためにはどうすればいいか。

誰にも振り回されず自分が自分を肯定できる領域を作り、そこを自尊の原点とする。日頃ゲームでやっている週ボスやデイリークエストのように、それが日々供給できて初めて自分の手元に自信が残ってくる。日が経つとそれが貯まってきて、些細な増減が気にならなくなる。ギャンブルをする余裕も生まれてくる。地道なことだが、自分はここから目を背けるべきではなかっただろう。

思えば宗教というのはこうした自尊心を無償で供給する場であったかもしれない。あるいはそれを金銭とトレードする場であったかもしれない。しかし神が雲の上に隠れた今では、各々が自前で自尊の源泉をビルドしていく必要がある(しなければならないというわけではないが、それが自分のコントロール下に置けない対象であるならば、対象に振り回されるか、あるいはその対象を利用してこちらを支配しようとする人間に振り回されることになる)。

冒頭の話に戻ると、自分には劣等感があり無知で無力であることを恐れている。それはそれらが肯定に値するかを審判する他者に対して自尊心のギャンブルを仕掛けているからだ。その賭けが大抵負けてしまうのは単に運が悪いばかりではない。ギャンブラーが陥りがちなように、自分の中での負けを取り戻そうと更に多額の資金を投じるからだ。自分の中の要求水準を無限に高めてしまうからだ。これはマイナスな人間にありがちなことだ。

自分の知力や知識、能力や価値観には限界がある。にもかかわらず、自分はその状態を正しく捉えようとしないまま、自分の限界を超えた領域に踏み込んで自尊心を勝ち取ろうとする。そして毎回敗れて気が狂う。これでは賢いギャンブルとはいえない。

自分に必要なのは自分が肯定に値するかどうかを審判するのを他者ではなく自分に委ねることだ。そして自分の力量でどこまで行けるのかを出来るだけ正確に理解した上で、それを正面から歓迎し、受け入れることだ。これは自身の停滞を招くという理由でこれまで禁じてきた。しかし停滞すらできないほどに下落し続ける自尊心を前にはやむなしというものだ。

 

(これまでずっとギャンブルの例えをしてきたが、適切な対処と訓練、行動によって負けを減らせるという点で純粋なギャンブルではない。ギャンブルという見方は自身がまったく無知無力の状態で、すべてを運に委ねるしかないという自分の視点を反映した言い方である。しかしおそらく他人を振り回すセンスのない自分には、他人とは未来永劫ギャンブルでしかないだろう)