人生

やっていきましょう

久々に自分は本を読んだ。1年間ほとんど触れることがなかったが、急に読みたくなって家にある本を手に取った。本の題名は『2001年宇宙の旅』、アーサー・C・クラークの小説だ。

本の中身について書く前にひとつ驚くべき発見があった。自分は文章がちゃんと読めているのである。当たり前のことかもしれないが、読む前は長いブランクに不安があった。しかしこうして書かれている文章を読めているというのは、自分が日ごろから自分の文章と向き合い、また一方で自身の表現と向き合ってきたからだろう。だからなのか、自分にとって書かれた文章は遠い過去のように思われるが、どこか身近なものを感じさせる。

とりあえず今日は第一章、猿人のシーンだけを読んだ。自分はSFを好みに思う反面苦手だと感じるのは、その前提知識の少なさから何が書かれているかわからないことが多いからである。そんなSFでもサルの行動についてなら自分にも読めそうだと思い、この場面を読むことに意欲的だった。

中身については今更書くことでもないが、猿人が人類に進化していく過程でモノリスと呼ばれる物体が干渉したという話である。ニューロマンサーと異なり大体何が書かれているかわかる文章で、読み終えるのに数時間とかからなかった。

読んでいて思ったのは、小説というのは本当に何でも書けるということだ。作者は場面についての描写を、何でもそれが当然のように書いてくる。このような風景があり、このような動きがあるという説明を淡々と行う。それが自分を物語の世界へと引き込んでいく。

今まで気づかなかったが、自分は本を正しく読んでいなかった。背景の細かい情報はどうでもよくて、とにかく物語がどう進むかだけに関心があった。これは小説に限らず漫画やアニメ、おそらく映画についても同じである。物語が動き出すところまでは注意が散漫になるというのが常だった。

しかし今回はその詳細を無視せず読んだ。書かれてある文章をそのまま頭の中で再現し、分からない単語はネットで調べた。今までなら高さ何フィート何インチ、重さは何キログラムという情報に対して一瞬で通り過ぎていたが、今回は大体どのくらいだろうとわざわざ想像した。

そうやってじっくり文章と向き合っていると、いかに自分が浅い見識で物事を見ていたかがわかる。たかがサルの群れ行動とはいえ、書こうと思えばどこまでも書けるということがこの小説を読んでいて分かった。この書かれた詳細に対する想像力は、現実で生きている自分たち人間との比較という楽しみを与えた。例えば自分たち人間はいくつかのことを記憶できるが、猿人たちは一度に複数のことを覚えられないと書かれている。そうすると複数のことが覚えられない猿人の目線で、彼らの取り巻く環境に対する想像力が働く。それは書かれていることのみならず、書かれていない部分にまで適応できる。

こうした文章を自分は書けているだろうか。おそらくできていないだろう。表現によって自明を生み出すということを自分はできていない。常に焦点が定まらず、迷いのある文章ばかりを書いている。だから自分の描く舞台はどこか浅はかで、曖昧なものが多い。

しかし以前と比べてその傾向は弱まったと感じる。創作する上で自分は確かなものを重視するようになった。果てしない連想の中でしか生み出されない曖昧さを表現するのではなく、話の展開が追いやすい可読性を優先するようになった。これは自分の反省もあるが、関心が変わったのだと思う。結果として確かな文章を求める傾向が自分の中で強くなった。

それが自分の中の詳細に対する軽視を好奇心へと変化させた。注意深く観察し、それを文章に置き換えるということ。それが自分の中で目指すべき目標のひとつとなった。当然自分はそれが本来のスタイルであるとは思っていない。自分の本流は連想であり、ひらめきに依存する人間である。しかしこの詳細に対する想像力こそが、実は自分の発想の飛躍を手助けしてくれるものであると最近思うのである。結局連想によって希釈されたアイデアは、最後には連想の循環と不可能をもたらして終わるのである。だがそこに一つの想像の対象を与えれば、自分は息を吹き返したかのように様々な飛躍をすることができるだろう。