人生

やっていきましょう

一部の冷笑家の間で「パターン化されたエモ」という言葉が広まっているのを見ると、感動とは体験ではなく消費であるように思う人が増えたように思う。メディアという見世物小屋から提供される物語や企業がサービスとして買い手に与える感動は、それが自分だけのものと思っていたものが実はまったくありふれたひとつの類型であることを暴き立てる。感動には傾向がある。分かりやすい感動は既に宣伝に利用されている。ひっそりと自分だけが見た情景はSNSによって少なくない人間が抱く景色であることが確認された。感動は流通する。パターン化はますます進行する。

自分の感動を殺さないためには、自分の感動が「パターン化されたエモ」であることをわざと忘却する必要がある。旅行会社が企画・提供した名所を巡る7泊8日の海外旅行は、単にそれが写真で見た景色の後追いであるという事実や定型的なプランによってモニュメントを機械的に回るだけの作業であることを無視して、完全に自分の感情だけに注目する必要がある。自分はそうやって感動体験に没入している。意識的な忘却による解像度の低さが、子供の頃のような原初体験に抱いた喜びを湧き立たせる。

しかしこうしたパターンがありふれた世界の中では意識して忘却することは難しいだろう。忘却とは才能であって、自分の常識感覚の外側を知ろうともしない人間たちの特権である。彼らのようになることができないなら、感動の主が外部によって規定された枠組みであることに不安を覚えることになる。

しかしそうした感動の在り方というのもまた面白いかもしれないと考えるようになった。ある人は、物事を知れば知るほど知らなかった時ほどには感動が薄れるが、知った後には既知の情報を組み合わせて何かを生み出す理性的な感動があるということを言っていた。パターンであり触れた世界の感動は、その組み合わせによって新たな感動となる。