人生

やっていきましょう

科学のスケッチというものは、通常自分が思い描いているようなものとは違う。自分は絵を自己表現の産物、またはそれを目的として生み出されるものとして捉えるが、科学のスケッチは構造の観察とその理解に目的がある。

要するにスケッチは対象が自己に侵蝕されていない。眼前の対象が何であるかを単なる印象としてではなく、再現可能なひとつの構造物として捉えようとする。

例えばインターネットで動物のスケッチを見たことがある。細かいパーツのひとつひとつに名前がついており、それらを適切に組み合わせて再現されたその絵は、現実のそれとほとんど同じものだった。

また古い時計仕掛けの資料を見たことがある。時計の中の無数の部品と歯車が、ひとつひとつ丁寧に分けて描かれていて、それらがどこに当てはまり、どのような役割を果たすのかが図示されていた。

こうした観察と分析、スケッチによる構造の再現は自分にとって身近なものではなかった。つい最近まで、自分はその思考様式の存在すら気づいていなかった。自分は自分の内面の中にある印象だけしか見えていなかった。そしてそこから生まれた解釈だけが自分のすべてだった。

しかし数年前、自分の価値が死滅したことで自分の内面には巨大な空虚が生まれた。そしてその時初めて、印象に振り回されて見えていなかった無数の対象が目に入ってきた。

初めはこの世界が違って見える感覚、印象の不在によって物事がクリアに見える感覚に感動していたが、しばらくして自分は激しい嫉妬心に襲われた。それはこの種の感覚を追究し、物事の分析に情熱を燃やす人間が少なからずいたからだ。彼らは自分の追究に対して何ら疑念を抱かず、好奇心と快感に従って分析と理解、そして再現に没頭している。

自分はその世界に入ることができない。なぜならば自分は本心から何かを再現することを求めていないからだ。もっと言えば、何かに対して没入するほどの強い動機が自己喪失とともに失われたからだ。自分の印象を深化させることも、自分の外側にある対象を再現することも自分にはできない。価値喪失の宙吊り状態、それこそ自分のここ数年間に渡る現状である。

自分は物事を分析するという態度を自明のように備えている人間の科学的な態度を賞賛しつつも嫉妬している。自分はどう考えてもそっちの側の人間ではない。自分の本質は印象。自己の直感に根差した歪んだ存在である。しかしそれでは生きられない。自分がこれから先に生き残るためには、物事の観察と再現による分析的(科学的)態度を学ぶ必要がある。いや、自分が必要としている。それがなければ、自分は狂った印象の中で身動きが取れなくなる。どうすればいいのか。

純化された印象は現実離れしたものになる。自分はおそらく世間の大半の人間よりは隔絶された精神生活を送っているが、隔絶された自己は酷く不安定で曖昧で、狂いやすい。それはいつ何時であれ参照し続けるのは自己だけであり、自分の変化というのが環境によるものというよりは自分の中に生まれた僅かな変異の蓄積によって生じるものになるからだ。つまり段々と、自分は自らの純化された狂気に侵蝕される。

自分が精神崩壊を引き起こしたのは、既に自身の印象に支配されて歪み切ったこの精神を、自分とは違う行動原理で動いている実社会に対して、無理矢理同期させようと試みた結果である。この無理矢理というのが良くなかった。自分はまず自分の印象、自分の解釈から距離を取る術を学ぶ必要があった。

頭脳を用いて外部の物事の構造に触れ、それを自分の内面や印象に「正確に」再現させるということは自分の主な欲求ではない。またそれは自分の得意とすることでもない。にもかかわらず、自分はそれを自分が本当に求めていたものだと思い込もうとしていた。なぜならそれこそが自分に足りないものであり、自分の狂気を切り払うものだったからだ。

しかしこうした態度を学べば学ぶほど、あるいは自分自身を観察的な態度で眺め続ければ続けるほど、あることが分かってきた。それは「科学のスケッチ」が自分の欲望の根源というよりは、むしろ自分が必要としていた「補助的な手段」であるということだ。知識も、技術も、能力も、すべて自分の直感をより強化するものである。メインに直感があり、直感から生み出されるアイデアに強い関心がある。それが自分だ。だが自分は物事に聡くない。それゆえ主観ばかりに目を奪われ、自分は構造の裏付けのない、極めて浅はかなアイデアに振り回されることになった。その意味で自分は陰謀論者と同じである。

だから自分には、物事の確かな理解によって精神の安定を得る必要があった。異邦の中で自身の直感、そして自分自身を生かすためには、自分とは異質の思考様式を我が物にすることが重要だった。それは自分が本心から求めるものではない。得意とすることでもない。しかしそれでも良かった。この領域は直感で切り開くものではなく、地道に積み上げることで道が開かれる。

このことを理解することに随分時間がかかったが、最近ようやく分かってきた。自分は自分の印象を内面に閉じ込めておくのではなく、外側に向けて開放する必要がある。内側と外側の溝がどこにあるかを観察し、特定し対処する必要がある。時には苦しみを伴うが、うまくいけば自分は新たな着想を得ることができる。そこに自分を活かす鍵があるように思う。