人生

やっていきましょう

面白くないものを面白いとよく言う。言っているうちに段々と面白くなってくる。それは逆張りでもあるし、本当にそう感じている面もある。

自分はつまらないという感情や感想こそつまらないと感じる。つまらないものを見た時の感情は大体どれも画一的で面白くない。対象をつまらないことにして、そこで切り離して満足してしまう。

しかし本来つまらなさも多様なはずである。笑いを目指して失敗したものは無数にある。この笑いは一体どの程度の失敗なのか。そうしたことを考えると自然に面白く感じてくる。

この前tiktokのつまらない動画をツイートしたものがタイムラインに流れてきた。なるほどその内容は甚だつまらないものだが、そのツイートのコメント欄はもっとつまらなかった。二つのつまらなさを観察してみよう。

前者のつまらなさはギャップによる笑いを狙ったものだが、落差を生むための題材がありきたりで新鮮味を感じないという点にある。編集も片手間であり雑な印象を受ける。

後者のつまらなさは、コメントが画一的であり、コメントの発信者が自身の否定的感情を絶対視し、それを当然に思っている点にある。そのくせ自分の価値観は表に出さず、どこかで借りたような言葉を使って対象を罵倒する。中身のない賞賛ならまだしも、中身のない否定ほど空虚なものはない。

それでも2つのサンプルを眺めていると、否定的な感情が薄れてきて段々と面白くなってくる。くだらないものを見たときに感じる、ある種の安らぎが芽生えてくる。

物事は初めから面白くあるために存在しているわけではない。どういうわけか物事を面白く感じてしまうことがあるというだけだ。面白さとは主観的なものだから、意図的に主観を歪めて面白く感じることができる。

そこで共有されている文脈は自分のそれとは別の、異質の文化に対する畏敬の念が生まれてくる