人生

やっていきましょう

673日目

重厚な語彙表現、例えば文語と呼ばれるようなものは単に言葉を箔付けするためものではなく、その言葉でなければ表し得ないような微妙なニュアンス(あるいはリズムや音感)を、より読み手の深部に届かせるためのものであったと考える。

しかしそうした表現は現在あまり使われることがない。文章と長年向き合ってきた自分が肌で感じるのは、言葉というものが標準化、画一化され、空疎なものになっているということだ。

自分が身近に感じる例としてネットユーザーの言葉遣いが挙げられる。どこの掲示板、どこのサイトに行っても同じような話し方ばかりを目にする。定型句を機械的に接続したような話し方をするので全員が同一人物であるかのような印象を受ける。

こうした言葉に嫌悪を感じていながら、一方で自分は当事者としてそうした言葉を望んでさえいる。それは結局、簡単な表現であれば容易に他者と意思疎通ができるからだ。

自分は文学的表現以上に広範な伝達可能性を重視する。自分は言葉を詩的な可能性に賭けて投げかけるのではなく、ある程度の根拠を持って伝わるものを選んで表現している。コミュニケーション能力、言葉の簡潔明瞭さを重視する昨今の風潮にならい、自分もまた、それが伝達に資するものであると判断できるなら、ネットスラングだろうが流行りの常套句だろうが積極的に使っている。

しかしそう努力すればするほど、自分の文章の中のオリジナリティは損なわれていく。書き手である自分が、こうでなければならないと直感したものを押し通すような都合を極力廃し、言葉を知る人間ならば誰でも理解でき再現できるような表現を努め、できるだけ他者の都合に配慮しようとしている。これがビジネスだったならこれ以上望ましいことはないだろうが、自分の本来の関心は言葉の文学的追求にあった。皮肉なことに、今自分はその対極にいる。

言葉は大多数の人間に投げかけられるものと、少数の人間に語られるものとではまったく異なる様相を見せる。大多数に伝達可能なものになればなるほど言葉の伝わる範囲は広がるが、政治家や芸能人の公式見解のような空疎なものになる。少数相手の言葉になればなるほど、その言葉を受け止められる人々は限られてくるが、同じ関心、同じ理解を持つ者にはダイレクトに響いてくる。

大多数の人間相手に語られるような標準化された言葉を使わなければならないという圧を感じる。言葉からある種の偏りを排除することが望ましいことだとされている。偏りを持てば配慮に欠けると言われる。そうした時代にあって、自分の言葉の偏りに自信を持つことができない自分が情けなくなる。