人生

やっていきましょう

負の感情は蓄積する。表ではいつも平静を装う。我慢できるからだ。筋を理解することもできる。仕方がないとも思える。考え様によってはそれほど深刻なことでは無いかもしれない。だから忘れる。しかし負の感情は確実に蓄積する。

アクシデントや対人関係ばかりではない。自分の弱さについて、ちょっとした不都合について考えた時に生じる不安、嫌悪、憎しみ、理由や対象はなんだって良いが、何かがあるごとにストレスが溜まる。

その度に問題を自覚し思考を矯正する。吐き出さず飲み込む。解釈の問題であるから、認識を変える。自分の偏見を修正する。しかし自分が抱いた負の感情は放置される。その時負った心の傷も放置される。

自分は、自分の良識ある人間としてのプライドを捨てて、すべてを他人のせいにして自分勝手に生きることができない。そうすればどれほど楽か。自分の気に入らないものに否定を押し付ける人生は気分が良いに違いない。

あるいは酒に走れば簡単かもしれない。だが自分は酒を飲まない。常に自分は問題が自分の制御下であることを必要とする。酒に主導権を奪われるということが気に入らない。だから飲まない。

ある時自分は壊れるという自覚がある。すべてに耐えきれなくなった時何かが起こる。そうなる前にガス抜きが必要だ。だが何にこの感情をぶつければいい?誰が好き好んで悪口を聞き、殴られたがる。

自分の狂気を加速させているのは、自分自身を合理化させようとする野望である。自分は常に論理的一貫性を意識する。自分の感情が危険なサインを出していても、自分が暴走することの不都合を考慮して我慢する。そんなことは誰でもやっている。誰でもやっているが、自分はそれを(自分の知性に見合わないレベルで)完璧にこなそうとしている。

そしてその合理化は、とても厄介なことに自分の目的意識からではなく、不都合な状況に対する適応の手段として行われる。その合理化は日頃から守っている習慣ではなく、何か問題が生じた時に自動で生成される受け身の合理化だ。

欺瞞という言葉が最も当てはまる。自分は確かにストレスを感じていた。しかしそれを隠蔽し、なかったことにする。自分は怒りを覚えていないし、覚えたとしてもそれは自身の忍耐力の欠如と誤った解釈によるものであるから、努力次第で感情を修正できる。怒りをなかったことにできる。

自分はストレスと向き合うことがなかった。不都合や、不満や、嫌悪感や怒りを感じる自分を否定していた。なかったことにしていた。しかし確かにそう感じていた自分は存在する。それを無視して健常者を装うから気が狂ってくる。

ひとりで喚いて終わってもいいが、自分は自分の感情と向き合うということを大事にした方がいい。問題があり、制約がある。ものはあるべくしてあり、出来事は起こるべくして起こるが、それはそれとして自分がその対象に何かしらの感情を抱いたという事実は忘れてはならない。

何かに不安を抱いた時、自分は不安なんか抱いていないではなく、自分は不安を抱いているという事実をまずは受け入れるべきだ。誰かに臆病者と言われようが、本当に不安を抱いているならば、それを正しく認識するべきだ。

あるいは誰かに怒りを感じた時、その怒りの原因が不当なもので、自分が間違っていたとしても、自分が怒っていたという事実を受け入れる。

これらは負の感情を正当化しろという意味ではない。負の感情が生じたという事実を認めた上で、初めて自分の選択が可能になるということだ。不安を抱いているのに不安を抱いていないと思い込んでいたら、不安に立ち向かうことが困難になる。怒り抱いているのに怒りの感情の不当さを理性に訴えかけ怒りを霧散させていたら、自分の怒りは幽霊のようにつきまとい、しかし正体を知ることが困難になるだろう。

まずは自分の感情を見つめる。それが慰めになる。次にどうするかを自分で決める。負の感情を抱くほどなら、対象から離れるか、立ち向かうか、我慢をするか、興味本位で敢えてその場に残ってみるか、何でもいいが、いずれにせよそれらの選択はすべて自分の選択になるだろう。