人生

やっていきましょう

961日目

自分が動画でよく見る配信者が2人いる。1人は英語が堪能でゲームのプレーも一流だが、帰国子女なのか、うっすらと日本を軽く見ているのが分かる。もう1人は実際に大会に出ている純日本人のプロゲーマーだが、英語があまり得意でなく、しかし事あるごとにワッツやファックなどの日本人らしい英語を吐いている。

2人に共通するのはどこか鼻につくということだ。見ていてイライラすることがある。しかしそれでも長い間彼らの動画を見続けているのはどういうことか。もちろんゲームが上手いから見に行っているのだが、彼らは自分の何かを刺激し、どこか近いものを感じるから見てしまうのである。

おそらく自分は英語という面で前者には嫉妬、後者には同族嫌悪を抱いているのだ。前者のように英語を当然のように話せる人間に対して自分は心のどこかで劣等感を抱いている。英語が話せないというだけで低い人間と見られることが悔しく、青春をこのコンプレックスの解消に費やしてきたのを覚えている。それでも当然に話せる人間たちには及ばず、惨めな思いをしている。

後者に対しては、そんな泥臭い自分の姿をまざまざと見せつけられているような気がして心が苦しくなる。無理をして英語に触れ、外人になれない自分が外人になろうとしていることの格好悪さを自覚すればするほど、かつてそうしてきた自分の姿が思い起こされ、胸が苦しくなる。

しかし両者共に、そうある自分というものに何ら負い目を感じていないのである。勝手に劣等感や同族嫌悪を感じているのは自分である。そう考えると、いかに自分がつまらないことを考えていたかということに気づかされる。

自分がもし彼らの動画から負の感情しか引き出せなかったならば、自分はずっと前に見るのをやめていただろう。未だに自分が見てしまうのは、負の面ばかりでない、正の面にもまた惹かれていたからではないか。

例えば前者に対しては一部劣等感ではない、純粋な興味のようなものを感じている。元々自分は英語に関心がある方だった。それが近年劣等感で埋め尽くされたが、本当は英語特有の発音や表現の仕方を面白いと思っていた。

また後者に対しても同族嫌悪ではない、第二外国語話者特有の同類意識みたいなものを感じていた。上手く英語が話せるわけではないが、同じように英語を学び頑張ろとしている姿に激励される。またそれ以外にも配信界隈ではクレオールのように日本語と英語が混雑した文化が発生するという点にも純粋な興味がある。ロシア訛りの英語、ドイツ訛りの英語が好きなように、自分は日本訛りの英語も好きである。

これまで英語は呪いだと思っていたが、実は案外そうでもないらしい。呪いに隠れて見えなくなっているが、実際自分の中には純粋な関心というものがまだ残されている。それらは負の感情でことごとく死滅させるべきではない。見つけたら保護して、自分の一部として自覚させる必要がある。