人生

やっていきましょう

自分がこのブログに書くのは基本的に自分を修正し自分を律する言葉である。すなわちここに書かれる自分の言葉は、自分自身が自分を改善しようという(極めて曖昧であるが少なくともそうしようとする)動機に支配されていると言える。

このような動機にしたがって、自分を改め奮い立たせる言葉を書き続けていると、自然とそうすることが当たり前になってくる。これは一見自分にとって良いことのように映る。しかしこの動機を注意深く観察すると、自身の改善を導くためにまず自らを否定していることが分かる。今の自分は最低のゴミクズであるという自認が根底にある。

いくら自分を改めようとする言葉を書き連ねても、自分にとってそれは前向きな動機ではなく、むしろ避けられない自分の汚点から目を背けるような逃避願望の表れである。いくら自分を変えようとあれこれ言葉を書いてみても違和感しか感じられないのは、それが自分を否定した先に生まれた、偽りの感情にすぎないからだ。自分は改善し克服できるという妄想は、自分がそうでありたいという願望と、そうでない自分に価値はないという否定から来ているが、そうでない自分という最も明らかな現実をまず直視できていないという点で陰謀論者と変わりがない。

要は自分は自分の言葉に支配されているのだ。成長神話に基づく自己讃美の歌声に、どこまでも歓喜していたいのだ。それは自分に宗教がもたらすような心理的安定、すなわち自分は正しい道を歩んでいるという安心感を与えてくれる。だがそれでもなおそこに違和感があるのは、自分の本心、自分の実態とかけ離れているからではないのか。

自分がすべきことはまず等身大の自分を受け入れることだ。誇張しすぎず、かと言って卑下しすぎない、自分の明らかな立ち位置を理解する。そしてそれを否定も傲りもせず、そこから自分に何ができるか、何を選択するかを考えていく。

そうやって自分を作っていかないと、自分は何も考えられなくなってしまう。改善は良いことだと声高に叫び、変えた方がいいものと、変えてもいいものと、変えなくてもいいものと、変えてはならないものの区別がつかなくなってしまう。あるいはその行動の意味が、本来様々な意図や動機が入り混じった複雑なものであったはずなのに、単純な肯定によってシンプルに処理されてしまう。その決断を自覚的に行うなら良いのだが、無自覚に下してしまうというのが怖い。自分の自覚しない傾向が、傾向に基づいた言葉を自分に吐かせるというのが恐ろしい。

自分は自分を機械的に律する方便を自らに課しているような気がする。特に最近はなんでもそうだ。メンタルが落ち込むと安定化の処理を図る。確かにそれで精神状態は良くなったが、無意識のうちに不安をただの無駄と捉えてしまう最近の傾向には違和感がある。まるで自分ははじめかは不安など抱かなかったと言いたげだ。

だが原点を忘れてはいけない。自分は弱く不安だった。すべてはそこから始まっている。自分は自分を正しく自覚する必要がある。理想はその自覚の程度を、必要に応じて自分で調整できることだ。