人生

やっていきましょう

以前業務を7,8人で回していたという話を聞いた。今は自分を含め2,3人しかいない。つまり自分は数人分の業務を背負っていることになる。これまで考えもしなかったが、明らかにハードワークだ。よくこれで自分が潰れないなと思った。

共同作業には慣れてきた。大抵のことは1人で対処できるようになった。英語は不安だが、反応を見る限りちゃんとわかってくれているようだ。一番嫌なことは変わっていない。1日限りの突発的な業務。学習の機会がないから本当にやりたくない。しかし不安が襲ってきたら、自分からその不安に飛び込むことにしている。なぜそう思えるのか、たぶん自分はそうすることが自身の着想を広げるうえで有効だと思うからだろう。

自分はここにお金の為に来てはいるものの、一方で「取材」に来ている。創作をしている時、自分の演出の浅はかさに随分悩まされてきた。何を書いても実が伴っていない。だから自分には多くの経験が必要だった。例えば自分はこれまでレジ打ちというものを一度も経験したことがなかった。しかし実際それを業務としてこなすことで、それが「レジ打ち」の一言で表現し尽せるものではなく、様々なタスクの生きた集合であることが実感できた。この経験がレジ打ちの理解の解像度をはるかに高めることになる。またこの経験が、類似する状況の描写に役立ったり、あるいはもっと突飛なアイデアを肉付けする上で助けになるかもしれないのである。

とはいえ、自分がしていることというのは経験を頭の中で言葉に置き換えるということだ。こうした視点で物事を見ているとだんだん行為に対しての現実感がなくなってくる。頭の中に再現された仮想の現実があるような感覚だ。メモを取ってからその傾向は強まっている。

幸いにもその仮想と現実は互いに影響しあい支えあうようにできている。だからこの傾向(現実で生じる直接的な苦痛に対して、言語上の仮想空間への避難を図り状況の整理を行ったり心理的な安定を試みようとすること)は特に問題だとは思っていないが、このことが何か悪いことに繋がるのではないかと不安になる。

自分はずっと頭の中にいていつも何かを考えている。自分が現実にあってなお現実にいないということは常々警戒しておく必要があると思う。

 

 

どんな体験であれ、それが創作のネタになる