人生

やっていきましょう

哲学に興味を持っていたが、なかなか深化させる方向には行かなかった。自分の関心は哲学的「態度」の方にあり、哲学者の著作や思想を分析して後世の発展に寄することではなかった。そもそも哲学が何の問題を扱っているのか未だに分からない。

自分がなぜ哲学に興味を持ったかと言えば、自分が世の中に適応できない人間だったからだ。わけもわからぬ内に孤独を強いられ、気がついたら自分がただの異常者になっていて、自分が何者なのか、何が問題なのか、置かれている状況は何か、どう対処すればいいかを考える必要があったからだ。

これらの問題を考える上で、哲学は自分の問題意識に近いテーマを扱っていると漠然と考えていた。しかし思い切って岩波文庫を読んでみたりすると、自分の問題意識に対する答えはどこにも見つからなかった。というか何が書かれているかまるで分からなかった。

一方で、人はいかに生きるべきか、あなたはなぜ苦しまなければならないのか、といった自己啓発は自分に理解できるものだった。言葉を選んでいて分かりやすい話をしている。読み手を励まそうとしている。うっかりすればこれを哲学だと勘違いしそうだった。自分はそれらを冷笑しているが、根底には自分が納得するような道を求めている自分がおり、本質的には彼らと何ら変わりがなかった。

結局自分は自分の疑問に対する答えを求めているだけで、世界の構造やその構成要素、互いの影響や前提の理解を求めているわけではなかった。老人が語りかけるような含蓄ある言葉で、自分に納得を与えてくれる存在を暗に期待していたようだ(極めて宗教的だ)。自分がこれまで理解してきた「哲学」はおよそ自己啓発的な文脈で語られる教訓、あるいは名前だけが独り歩きした「偉人」の格言集とあまり変わりがなかった。

しかしその文脈とは別の、おそらく純粋な意味での哲学に接近したことがある。当然それは2018年に自分の身に起きた精神崩壊に由来する。

あの時自分は自分を成り立たせていたすべての前提が崩れ落ちるのを体験した。そのまま自分が正気を失い精神病院に入るかと思われたが、不思議とそうはならなかった。何が起きたのだろうか。

端的に言えば、突然自分が無意識に思い込みを抱いていたということを悟った。自分を振り回していた価値観がすべて瓦解したことで、初めて自分は等身大の目線から世界を眺めるという経験をした。

これは驚くべき出来事だった。今までの自分は不安によって増幅された世界を眺めていた。人間不信、劣等感という解釈が自分の認識を歪めていながら、しかしその存在があるということをあまり自覚できていなかった。

おそらくこのような前提に気づくということが哲学の基本的な態度ではないかと個人的には思う。前提を認識し、自分がそれに囚われていることを自覚することで、自己が置かれている状況を自己と切り離して客観視することができる。

例えば学校ではテストが与えられ、生徒には100点を得ることが期待される。この状況下での最善手は出題範囲を理解して何度も復習すること。だから生徒は必死になって勉強する。

しかしそもそもなぜ100点を取らなければならないのか、言い換えれば、100点を取ることが正当化される前提とは何か、ということを考え始めるとそれは哲学である。内申点に影響する、大人に褒められる、学習の理解度を測る指標となるという答えが思い浮かぶが、その前提を更に問うと途端に分からなくなる。

分からなくなる一方で、少なくともテストで100点を取ることは神が人間に与えた契約でも、誰もが従わなければならない絶対的な真理でもなく、何らかの条件によって機能する手続きでしかないということは分かるかもしれない。これもひとつの前提だが、今挙げたような前提と、これまで自分を支配していた思い込みの前提を比較すると、自分を違った風に見ることができるかもしれない。

この経験をして以来、自分に納得を与えてくれる答えを求めるという動機から、自分を成り立たせている前提は何か、それらが自分にどのような影響を与えているのか、ということに関心が推移した。つまり、自分は解釈ではなく機能を見ることにしたのだ。この転換こそ自分の中の顕著な変異であり、自分の正気を保つことに繋がった直接的な原因であると考える。