人生

やっていきましょう

話を聞かない人間がいる。聞かれたことに対して適切な返答をしない。そもそも聞こうとしていない。聞いていないという自覚がない。

また理解のない人間がいる。特段難しいことは言っていないのに当を得ない顔をしている。自分はそれを更に分かりやすく整理する。それでも尚伝わらないことがある。

これだけならまだ許せる。無理解や不注意というのは能力的な欠陥であるから、本人がその問題と真摯に向き合い申し訳なく思っているうちは改善を期待できる。それだけの心の余裕が自分にはある。実際自分もそのような傾向があり、なおさら改善の機会は誰にでも与えられるべきだと考えている。

だが現実はそう都合よくできていない。話を聞いていない人間というのは大抵独断と偏見で動く。理解をしない人間は、身の理解度を他者と共有しようとしないから見ている視点に齟齬が生まれる。その結果トラブルが生じるが、そのことを本人は自覚していないし、その非が自分にあるとも考えない。目につく情報は外にあるので、常に相手が悪いということになる。

こうした人間はそもそも問題に関わらせるべきではない。ただ自分より立場が上であったり、一回りも歳を食っている人間に対してはこうした態度や措置を取ることができない。年功者というのは経験に裏打ちされたプライドがある。老いれば誰しも経験を積み上げる。分かりやすい指標だから誰もが皆それだけで偉くなったつもりでいる。しかし経験というのは何を対象としたのか、それとどのように関わり、どの程度の成果を得たのかということにおよそ依存すると思う。またその時代で生きていた経験が、現在に通用するのかどうかにも関わってくる。

「経験」を自尊感情の拠り所にすると人は段々と傲慢になってくる。これはひとつの信仰であるから、他所の人間がどうこうできるものではない。そうした人間に対しては対話可能性が開かれていない。相手は経験が浅く物事が見えていないという妄想に取り憑かれる。それが有能であればまだわかるが、無能であれば悲惨なことになる。

こうした老人はほんの一例であって、話を聞かない、理解しない人間というのは沢山いる。その人の主観が自身の判断と避けがたく結びついている場合がそれだ。そしてその状態に対する一種の満足があり、自らの置かれている状態を観察し修正する動機もない。こうした人間に自分はよく遭遇し、毎回酷い目に遭っている(おそらく相手に歩み寄ろうとしすぎる姿勢が、傲慢で自己愛的な人間の嗅覚に反応するのだろう)。

自分はこうした人間を恐れている。また、彼らに何もできない自分を嘆いている。そして自身の無力に怒りを感じる。自分は余計に人が怖くなり殻に閉じこもる。

最も安易な解決策はこうした人間とは極力関わらないことだ。環境を変える。そして話の通じる人間とだけ交流する。時にこの欲求に抗いがたくなることがある。だがなぜか自分はこの解決策を遠ざけようとする。それはやはり、自分が未だに【話せばわかる】という強迫的な妄想に取り憑かれているからだ。またそれを断念することが、今までの自分の苦労を無意味にすることだと分かっているからだ(更に言えば、独創の源泉なるものは常識に取り囲まれた関係の内側ではなく、一人異質な状況下に置かれている時に最も顕著に見いだされるという、根拠不在の妄想もまた関係している)。

だがやはり自分はそれらを断念すべきである。今からでも話の通じない人間とは距離を置き、話の通じる世界に近づいていくべきだ。他の人間は早い段階からそうすることで自身の正気を保っている。自分は正しいと思い込んでいる健全な精神に嫉妬する。幸福とは無自覚の安定である。だがそんな暗い感情を抱くくらいなら、小さな人間関係から安心を得ていく努力を始めたほうがいい。