人生

やっていきましょう

「もう少し頑張ればゴールなのに」と誰かに言われたら、自分はそれならやってみようと思う。だが世間には「面倒だからいい」と早々に諦めてしまう人がいる。

諦めの早い人にこれまで何度か出会ってきたが、彼らが早々に身を引くたびにもったいないと感じる。多少の努力でどうにかなるなら自分は無理をしてでもやった方が得だと思う。

だがそれは自分自身の執着心が強いからそう考えてしまうのだろう。物事に執着のない人間は無理をするなど考えられないし、そんなことをしても意味がないと思う。どちらが正しいということはないが、前提を自覚していないと自分の考えを自明視しがちになる。

異質な他者と遭遇すると自分の考えが相対化される。今回の場合、物事の取り組みに対する態度の違いが自分にそれを気づかせた。彼らが惰性の人間ならば、自分は執着の人間なのだ。もう少しこの問題について考えてみる。

確かに早々に身を引いた方がいい場合というのもある。ちょっとの無理をしてひとつの成果を得るよりも別の関心に時間を割いた方がいいことがある。無理をした結果、状態を悪化させて更に苦しむこともある。予測が立つなら退くということもまた有効な選択であると思う。

一方で自分はというと、道半ばですべてを失うことに耐えられない。だから途中までやってきたことは最後までやり通したいと思う。だがそれは自分の意志だろうか。よく考えてみると自分の選択というよりは、そう選択せざるを得ない心理状態に自分を置いているだけのように見える。無理をしてしまう性質上つねに「あと一歩」に翻弄されている人生だと言える。

「あと一歩」という言葉に自分は誘惑されている。そうではなく様々な判断材料をもとに物事を自分自身が選べているかが問題だ。自分の体力が尽きていたり、状況が極めて危険な状態にあるときに「あと一歩」を退けることができるかどうか。あるいはその一歩を踏むために全身全霊をかけて無理を押し通すほどの意志を持てるかどうか。

自分は賢く無理をすることを学ばなければならない。つまり自己破壊的に物事を強行するのではなく、持続と達成を視野にいれた方針を自分の判断のもと定めることができるかということだ。その上で時に無理をし、時に諦めることを選んでいく。その判断は必ずしも良い結果をもたらさないだろうが、自分の意志を確立し尊重するという態度がなければ、自分は自分を取り巻く様々な事象、あるいは他者の都合に翻弄され続ける。