人生

やっていきましょう

1174日目

誰かの言葉で、人生で何がプラスで何がマイナスかその時点では分からない、今の価値基準で何が役に立ち、役に立たないかを捉えるのはやめた方がいいという言葉があった。この言葉について自分は少し考えていた。

大学時代、役に立つ、という言葉にどれほど翻弄されていたか今でも覚えている。世間の風潮として、役に立つ人、役に立つモノこそが正義だということがよく言われていた。これは確かにそうだと思った。自分もどこかで、そんな人間になれたらと思っていた。

一方で、役に立たないとされている学問を自分は学んでいた。自分は文学部にいて、その中で自分はどの専攻に進むか悩んでいた。英文学科に進んだのは、その中でも役に立ちそうなものだと思ったからだ。だが本心を言えば哲学科や西洋史を専攻したかった。心理学にも興味があった。

大学4年間、自分は役に立たない学問を学んでいた。自分が実学志向のある人間であるならば、文学部ではなく実学的な方面に進むべきだった。しかし受かったのがたまたま文学部であり、何より文学部が第一志望であったことから自分にはこの道しかなかった。自分は実利より美学を選んだのだった。ではなぜその時になって悔やみ始めたのか。おそらくそれは自分の精神があまりに不安定で、何か確かなものに縋りたいという思いがあったのだろう。自分は美学や芸術を優先したつもりが、急に怖気づいて現実との関わりを持とうとして、様々な妥協の上で英文科に進んだ。しかし英文学などそれまで一度も読んだことがないのだ。

この選択は当時失敗だったと思っていた。しかし英文科に入ったことで、自分の中の文化的な関心は一気に英語圏に近づいた。当時はそれほどでもなかったが、大学を離れてから自分は海外のツイートを追うようになったり、海外の文化圏に触れる機会が多くなった。他の学科に行っていてもそうなっていたかもしれないが、1.2年英文学だけに触れていたということが、英語圏に対する自分の愛着を高めていたことは事実である。

同時に自分はロシアにも関心が近づいていった。自分が卒論で選んだのはオーウェルだが、彼のことを調べている内にロシア文化に独特の薄暗さに惹かれるようになった。おそらく英文科に入らなければオーウェルなど読まなかっただろうし、ロシア文化に覚える親近感にも触れることもなかっただろう。何が自分に作用するかは分からないものである。

それらは結局は趣味の話でしかないが、もう少しそれらの作用を大局的にみることができるようにも思う。つまり、他のことについても同様のことが言えるのではないか。自分は確かに多くの事で人生に失敗した。しかしその経験が無駄だったとか、価値がなかったと思っているのは、現時点の狭い尺度で判断しているからにすぎないのではないか。自分は確かにレールから外れた人生を送ることを余儀なくされたが、それを人生の終わりと考えているのは、自分が普通になろうと努力した中での価値観でしかない。普通を目指さなければ、むしろ足枷のない自由を得たと考えることもできる。そんな簡単に肯定はできないが、自分の現時点での状況など相対的なもので、どのようにでも解釈できる。

自分が誰かに期待される人間になろうとしている限りでは、自分の大学で学んだことは何も役に立たなかったし、就活で失敗したことは致命的だった。出世して人の上に立つことが人生の至上命題であれば、自分は相当地雷を踏んできた。しかし自分の人生がその限りではないとすれば、現状はそれほど最悪ではないということになる。むしろ自分に別の影響を与えたという点で、むしろ良かったかもしれなかった。

例えば自分は精神的な挫折がきっかけで、精神崩壊を招きながらもこのブログを立ち上げた。それにより自分の思考や行動を隅から隅まで把握し尽そうという考えが生まれた。それらを繰り返すうちに、自分の考えを言葉で表現するということを大学の頃以上に行うようになった。物事を注意深く眺め、自分の知ることと知らないことを見極める癖がついた。そして自分の無知に正直になることができた。

こうした精神的な成長は挫折抜きにしては考えられなかった。あのままうまく行っていたら自分はこの世の栄華を極めたつもりで調子に乗って、どこかで自分が味わってきた以上に致命的な挫折を抱えていたことだろう。そうなる前に、自分の尊厳が折れた程度のことで済んだのだとしたら、失敗はそれほど悪いことでもないように思う。

とはいえこう書いていると、他人や社会などどうでもいい、自分の好きなように生きろと自分を納得させたがっているように思えるかもしれない。確かに自分にはある程度そう考えるゆとりがあったほうが良いだろうとは思う。しかし自分はそう簡単に集団から孤立することはできない人間だと自覚している。自分という人間を優先しすぎると、他者から疎まれ、周りから迷惑に思われる。自分の好きなように生きるとは、そうすることのリスクを併せのむことでのみ達成できる。しかし自分はそうなるつもりはない。他人を犠牲にして自分の願望を叶えようとは思えないのである。

自分が言いたいのは、自分の意志を強く持てということである。この言葉を昔は浅く表面的な言葉だと理解していたが、今ではその意味するところが分かる。自分の意志があるということは、行動の最も根本的な原動力であり、それがなければ何事も為せないということである。

Apexから学んだことだが、自分を出さなければ状況に対して受け身になり、ただ翻弄されるだけになるのである。自分が周りに合わせようと必死になっている様は、客観的に見ればApexで味方の動きに合わせようとすることと同じことなのだ。過剰な適応ゆえに全体の状況が見えなくなり、判断がワンテンポ遅れ、味方を失うと途端に何をすればいいかわからなくなる。だからいついかなるときも、自分の意志を忘れてはならないのである。

自分はこうするのだという意志を持つことが本当に大事だと思う。Apexを長時間やっていなければその発想に至ることはおそらくなかった。今でも自分を出せずにいて他人を恐れるだけだったかもしれない。Apexを始めたころは、そうしたことをこのゲームから学ぶとは思っていなかった。これもまた何が作用するか分からない一例である。

いずれにおいても言えることだが、自分に思いがけない影響を与えてきたものたちは、自分が少なからずそれに触れると決断したものばかりであるということである。自分があらゆるものを拒絶してきたら、それらの影響は自分にはなかっただろう。青臭く途方もない目標にぶつかっていき、粉砕し、挫折し苦しんだからこそ今の自分がある。それすらしなかったら、何事も学べていなかっただろうと思う。