人生

やっていきましょう

239日目

習慣4日目。昼食を抜いた。起床が遅かった。

精神がまた不安定になった。それで運動したらまた治った。昨日と同じ繰り返しなので、不安を幾分冷静に受け止められた。

ただ運動するまでに1.2時間かかった。それまで部屋の中で頭を抱えるだけだった。この時間は無駄だ。心が不安定になったらすぐに運動すべきだった。実際、その過程では解決の方法があるということを忘れている。ただ不安しか見えていない。

不安を何度か経験して思ったことだが、不安に直面するとそれが現実的な問題から来るのか、未来予測の仮定から来るのか識別できなくなる。「不安を感じた」ということはまさしく事実だが、不安のトリガーとなる対象は現実的な問題でもあり得るし、もしこうだったらという仮定のものでもあり得る。

より詳細に言えばトリガーとなるものはまず第一には現実的なものだろう。次にその引き金から未来に対する漠然とした不安を感じる。そこで無数のネガティブな仮定を想起する。その仮定が更なるネガティブな仮定を想起する。

ここで自分は「不安を感じている」という事実ばかりを見てしまう。その事実が自分にとって非常に深刻なものであると騒ぎ立てたいのだ。それが自分の身に起きていることには間違いない。だがその後が問題だ。この時自分は「かもしれない」の方に原因を求めてしまいそうになる。

たとえば自分がよく抱く不安に孤独感というものがある。孤独な理由はいくつかある。コミュニケーション能力の問題であったり、人付き合いが分からないであったり、過去の失敗経験の積み重ねであったりする。知り合いが身近にいないということも考えられるだろう。これらはすべて現実的な認識であり、それ自体には問題ない。

問題は孤独な理由について「もしかしたら自分は周りの人間から嫌われているのではないか」という仮定、あるいは一歩進んで「行き交う人間全員が自分に対して軽蔑の目を向けているからではないか」と考えることだ。

不安感情は仮定とリンクする。不安感情とリンクした仮定は不安感情とともに記憶に残る。だから自分が不安感情を抱いた原因は何かと考えたとき、この仮定を連想しやすくなる。それで自分が「自分が人付き合いができないのは他人から嫌われているからだ。だが自分は何も悪いことはしていない。よって自分を嫌うのは不当な行為だ。許せない」などと考えてしまったら救いようがない。単なる被害妄想だ。

本人からすればそれは事実なのだろう。自分が不安を感じているというのはまさしくリアルなものだからだ。問題は不安を抱く主体がそれを正確に表現できていないということだ。そして不安の言及に対するものの大半が不安の連想に原因を求めている。

連想は必ずしも因果関係を示さない。自分がこの1年で強く言い聞かせてきたことだ。連想は相関関係を示唆するかもしれないが、それが因果であるとは言いきれない。だから自分が不安に駆られて「なぜ」と問いたくなったら現実的な予測に基づくべきだ。「かもしれない」に支配されてはならない。

自分が注意すべきこととして、まずは不安になっている自分を現実のものとして受け入れる。次に不安を和らげようとして「なぜ」を求める段階になったら、大抵の仮定は二束三文の価値しかないことを自覚する。それらは強迫観念に駆られて不安要素を連想しているだけであって、要するに自分を納得させたいがための苦し紛れの言い訳にすぎない。

唯一自覚して良いのは現実的な問題だ。先に述べた通り、実際にこうなっているというものは根拠として認めてよい(それでも自分の誤解や偏見、被害妄想が混じっていないかどうか懐疑的になる必要はあると思う)。

そうしたとき目の前の不安が多少現実的で具体的なものとなっていると思うので、それが解決できる問題であるかどうかを判断する。たとえば孤独感を覚えるという問題が、ゲームの知りあいに合えば解決できそうであればそうする。実際の社交場で理解者を求めるというのが解決になるとしても現時点での自分には荷が重いというのならそれはしない。できる範囲での努力を善処する。すると多少はましになる。

今自分は強力な武器を持っている。運動をすれば不安は飛ぶ。このことについて自分は核とした医学的な根拠を持たない。テレビやネットの受け売りか個人的な経験から導き出した答えだ。おそらくは正しいだろうと思う。不安の直接的な原因を解決しなくても、不安を感じやすくなっている自分を調整することで、不安に対する捉え方が変わってくる。根本的な解決になっていないのは理解しているが、緩和できるのであれば利用しない手はない。不安になったら運動するというのはもはや自分の中では定石といっていいほどのものになっている。まずは手堅く運動をしよう。それでも解決しなければその時考えようということだ。

不安を感じたら運動。そこに雑念を挟む余地はない。

238日目

習慣3日目。すべてのノルマをこなした。

昼食が遅れた。昼に近い朝食となった。その分昼食も遅らせた。夜は問題なく食べられた。

運動は問題なかった。いつも通りのメニューを2周まわした。その後外を走ってそのまま風呂に入った。

運動する前に極度の不安状態に陥っていた。ずっと頭の中で苦しさを訴えていた。自分は死んでしまうのではないかと思っていた。だがひとたび運動をすればその震えは止まった。筋トレに加えて寒空を走ったことで完全に不安が消失した。いつものように「きつかった」「かーっ、この水のうまさ」というどうでもいい関心に支配された。

幾分滑稽味がある。ことの深刻さは瞬く間に喪失した。このギャップが面白い。今思えばあの不安はなんだったのだろう。運動した程度で吹けば飛ぶような不安だったのか。今となってはよく思い出せない(だがおそらく明日もまた不安は襲ってくるだろう)。

不安をごまかすのがうまくなった。あらゆる不安要素を忘却して、とにかくよしと自分の心をなだめるのがうまくなった。現実は何も変わっていない。解釈が変わっただけだ。その解釈もことさら自分にとって都合の良いものだ。だがとにかく、そこに埋没することに成功している。

ふと自分の思考の変化に気付く。今までは不安は直視しなければならないものであり、すべて背負う覚悟で生きなければならないと思っていた。これは人間の生き方ではない。自分はそれをヨナ記の鯨、あるいは空想上の巨人のように思っていた(進撃の巨人という漫画は観たことはないが、恐怖を演出する上で巨人を題材にしたのは良い着眼点であるように思う。同様に恐怖から目を背けようとして張った巨大な防御壁も印象的だ。何かモチーフがあるのだろうか)。

しかし背負う必要はないのだと、すんなり受け入れられるようになっていた。巨大な不安に立ち向かわず目を背けるのは逃げであるという考えがあったが、逃げて良いと判断したときは逃げて良いという風に考えが変わった。自分の価値観がリセットされ、逃げないことも逃げることも価値の上では等価であると思うようになったからだ。そこには逃げる選択、逃げない選択の先にある影響と結果だけがある。

トラックが猛スピードで突っ込んでくる。それを逃げないで立ち向かうという宗教的情熱が自分にあったとする。自分は逃げる選択も逃げない選択もできる。だが自分が逃げなかったことにより神から、社会から、他人から名誉を与えられるだろうか。分からない。ただ唯一言えるのは、逃げれば一命はとりとめるが逃げなければ重傷を負う、あるいは即死するということだ。

こんな単純な話は自動車教習所でも習わない。だが自分にとっては重要な話だ。「本当に」自分は逃げていいのだろうか、と考えるのはなるほど思考実験としては有用だ。とはいえ実際の問題となると、反射的に逃げることが生命維持のための最もな最適解であるように思われる状況が度々ある。その時にもしかしたら逃げない方がいいかもしれないと思うのは現実的ではない。逃げるときは逃げる。迷わず行動するということが選択肢のひとつとしてあっていい。

これは先ほどの疑問の答えになってない。本当に逃げていいのだろうか。逃げずに無理した方がいいのではないか。ひょっとしたら逃げない方がいいかもしれない。

この答えは後になってみないと分からない。だがひとつだけ言える。自分は自分が望んだ選択肢の反対方向に価値を置く傾向がある。またこうしたバイアスを妄信して流される傾向がある。だから自分の望んでいる方向の反対が気になったときには、ふと立ち止まって考えてみる。自分は正確な判断を下しているといえるか?現時点では自分にとってどちらがより重要か?そうしたときに、逃げないという選択肢が有力になる状況もあるだろう。だが一方で逃げる選択肢が有力になる状況もある。

より現実的な思考を努めるべきだ。そのうえで物事を選択する際に無難な選択をとるのか、自らの価値を優先させるのかは自由に選んでよい。重要なのは現実的な視点から決して目を背けないことだ。これは問題から決して逃げるなということではない。自分の理想、思い込み、バイアスにすべて支配されるなということだ。自分はこう思いたがっている、あるいはこう望んでいる。だが現実はこうだ、という視点が必要だ。それがどんなに自分にとって不利であれ、その現実をごまかさず直視し続ける。少なくともそういう心意気だけは持ち続けたい。そうすることで現実の問題が、まったくの絶望的な境地であるという粗い解像度から、現実的な処方によって部分的に解決できるものであるという認識にもっていける。

これらを踏まえて今回の問題にあたる。自分の不安は運動によって解消されるものである。それは自分にとって深刻な問題である不安を直視せず、自分をごまかして問題を先延ばししているように見える。だが現時点で、自分が最も優先しなければならないのは自分の健康と精神の安定である。なぜなら今までの人生の失敗の原因はまさにその欠落にあったからだ。したがって自分は不安を直視し続けるという選択から、運動によって得られる多少の安定を選択する。

そういうわけで明日からも引き続き朝食と運動、そして風呂を続けていく。

 

ところで夕方ごろに新たな曲を作曲した。ふと頭の中に流れてきたメロディを切り貼りして完成させた。よく精査せず思いつきでつくって完成させたのでいくつか不満な点があるが、個人的にはまあまあ曲になっていると思う。

工夫したのは16秒以降の副旋律だ。6つの音符を1セットとして音調を変えながら4パターン繋げた。そのあと主旋律が後を追うように入ってくる。

不満な点はやはり作曲の粗さだ。本来もう少し長い曲を作ろうと考えていたが面倒なのでやめてしまった。旋律も2つしかなく、奥行きがあまりない。その結果、中途半端な音楽になり浮ついた印象を与えてしまっている。

雑に作曲をするくらいなら日を置いて取り組んだほうがいいだろう。1日で完成させなければならないという制約はない。そもそもこんなもの自体誰が聴いているか分かったものではないので、焦る必要もないだろう。気ままに作っていればいい。

237日目

習慣2日目。すべてのノルマをこなした。朝食を食べ、運動をして、そのまま風呂に入ることができた。

朝食を食べたことで1日の活動に余裕が生まれたと感じる。当たり前のことだが、朝食を食べればその分エネルギーが蓄えられる。今までは活動の方を節約して済ませてきたが、改善可能な部分を改善することで、公道可能範囲が広がるのであれば修正しない理由はない。

運動は慣れていた頃よりは苦しいと感じた。やはりブランクが長かった。全体的にハードな運動を繰り返すので息切れを起こしそうだった。だが腕立て伏せに限っていえば今まで感じたほどの苦しさを感じなかった。一番苦しかったのが腕立て伏せだったので意外だった。自分が思うほど基礎体力は落ちていないのだろうか。そういえば筋トレはしなかったものの、積極的に歩くことはしていた。そういう部分でカバーできていたのかもしれない。

風呂はうまくいっている。運動の直後に入ることで風呂が面倒だと思わせない。この工夫が生きた。この習慣から風呂は面倒なタスクからリフレッシュの機会であると認識できるようになった。正の動機付けだ。風呂から出たらそのまま歯を磨いている。今までのように歯磨きを個別の作業として行うのではなく、一連の流れに置くことで、寝る前のスナック菓子や飲料水に手が及ぶことを防いでいる。一度磨いた歯を汚すのは惜しいと思わせる工夫だ。

また風呂からあがった後はだいたい眠くなる。これも工夫だ。一連の流れの帰結として眠くなるようにしている。結果、そのままゲームをしようと思わせるのを防いでいる(この点に関しては効果は強いといえないが、動機を減らすことには役立っている)。

習慣を戻したことで事態が単純化した。自分の意識が不安や恐怖といった抽象的な問題から、肉体的な痛みや感覚的な癒しといった具体的なものへと推移していった。簡単に言えば自分の関心が「自分はなぜ生きているのか、なぜ苦しみ続けなければならないのか」といったものから、「運動きつい」「風呂でさっぱりした」「ねむい」といったものに移行した。自分が生きるということが、痛みやリラックスの前ではもはや自明のこととなっている。

自分が創作するうえでこれほどつまらない事態はないが、関心を現実的な範囲にとどめておくことは精神衛生上良いと思われる。ともかく、こうすることが現状の最適であるという認識は強化された。やはり習慣は続けるべきだ。

 

ところで新たに音楽を作曲した。スマホに元々ついているGarageBandを適当にいじっていたら偶然発見した音律があった。自分の関心を惹いたのでそのまま曲にした。

 曲の構造は単純だ。前半部を2回繰り返し、後半部を2回繰り返している。最後に少し変化を加え、そしてまた最初に戻る。前半部は階段のように旋律が降りているが、後半部は同じように階段を上がっている。それで整合性の取れた曲ができている。

旋律は3つ採用した。だが3つのメロディが3つとも旋律として独立しているのは新しい試みだった。こうした試みは大抵の場合リズムの不整合を生んだり音の過剰から「くさみ」を増す要因にもなりかねないが、偶然とすべてがうまくかみ合い曲として問題なく聞けるようになった。

当初のイメージとしては中世の吟遊詩人が語るような静かな旋律を意識していた。だが旋律を加えることによって、とくに低音の旋律が加わったことによって抒情性が増し、雪国と郷愁というイメージを自分に抱かせた(これは「ドラゴンクエストモンスターズ2 イルの冒険/ルカの旅立ち」の「雪と氷の世界」の曲調に近い)。

 後半部の副旋律にやや物足りなさを感じるとはいえ、概ね満足のいく出来に仕上がっている。ただほとんど偶然の産物であり、今後の作曲のハードルを上げてしまったことは自分にとって難点であるように思う。これは実力以上のものと戒め、今後はもう少し難度の低い曲を作っていきたい。

 

236日目

最近運動をしていない。気が付いたらやらなくなっていた。最後に運動をしたのは11月頃だ。以後3か月ほど、ほとんどやることがなかった。

これには理由がある。長期的に外出する機会があり、そこで今までの習慣を打ち切られてしまった。そのあといつものように運動をしようとしたが、その日は忘れてしまい、次の日にやろうと思い立ったときには、何か自分の興味を惹くものに意識が向かい、そのまま疲れて寝てしまった。それで数か月やらなくなった。

長期間運動をしていないとなかなか再開することができない。自分の体力に相当の負荷をかける。その痛みを回避しようとして、やらない言い訳を考える。そうして結局やらずに終わる。

だが最近運動を再開する必要性に駆られる。少し体力が落ちたと感じるし、気分が安定しない。運動をしていた時の、今自分がここにあることに対する、根拠のない充足感がない。今まではそれ無しでもなんとかやってこれていたが、最近では体も心も鈍ってしまい、ちょっとしたことで苦しいと感じてしまう。

自分を鍛えなおさなければならない。自分の心が弱いのは、痛みや苦しみを跳ね返す力が弱っているからだ。運動を続けて自分を改善し続ければ、今よりは生きやすくなるだろう。

まずは運動を1週間続ける。記録もつける。今ままでのようにできるかどうか分からないという問題ではない。かつて自分がその焦燥からやらねばならぬと思い至り実行したことであり、その根気から数か月は持続したものだ。だから不安はない。今の自分なら容易にできる。

具体的なメニューは以前取り組んだものを採用する。2セット行う(加えて毎日走ってもいいかもしれない。だがこれは強制ではない)。

それから朝食を抜くことが多い。朝食を抜かないようにする。そのために早めに寝る。睡眠時間はまだ制限しないが、4時や6時といった非現実的な睡眠は避けたい。(こういう状況に陥りやすい原因として大乱闘スマッシュブラザーズが筆頭として挙げられるが、自分は朝食を食べ生活習慣を整えるのだという強い意思をもって距離をとらなければならない)

それから風呂と歯磨き。1.2日くらい良いだろうと忘れてしまう日が度々ある。とくに風呂は1日のストレスを和らげる。風呂に入るまでが難しいのはわかるが、入ってしまえばあとは簡単だ。だから毎日やる。

とりあえずはこの3つでいいだろう。運動、朝食、風呂。これらを1日の最優先事項にする。明日からとは言わず今日からやる。

創作は一旦保留にする。アイデアに煮詰まっており、やる気が全く起きない。また精神面での不安と焦燥に駆られていて、今は創作をやるどころの話ではない。だから一旦距離をとる(もちろんやりたいと思った日にはやる。ただ毎日に創作を課すという拘束は外す)。

 

235日目

1週間経った。当初の予定だったGB Studioの仕組みを確認すること、ゲームのデザインや世界観をまとめることができなかった。代わりに音楽の変換法について考えることとなり、そこでかなり時間を食うことになった。

だが簡単な作曲を1週間やってみて、単純な曲なら作れそうだという自信につながった。これは1週間前の自分には信じがたいものだった。眉唾物だが、簡単な音の周期と組み合わせで誰でも曲は作れるのだ。

難しい課題を先に取り組んだおかげで肩の荷が降りた。残りの2つは動画を見て想像力を働かせれば簡単に終わる。少なくとも音楽よりはそう思える。

空想について注意する必要がある。空想を自由に任せると収拾がつかなくなる。ある程度テーマを決めて、その中で自由に考える必要がある。たとえば砂漠であれば砂漠の中でイメージを完結すべきであって、その砂漠が火山や森や地下室や宇宙と繋がっては一向にまとまらない。砂漠の中に敢えてそれらを置く前に、砂漠という最も基底のイメージを揺らがせないようにする。そうしなければいつまでたっても何を描こうとしているのか見えてこない。

これまでの習慣と努力から煩雑で無秩序なイメージの中に合理的な枠組みを刷り込ませることに何度か成功している。これは何かを作るうえで重要な役割を果たしていると考える。空想を具現化するには何らかの現実的な形で「妥協」する必要がある。作ろうとしている対象のイメージが刻々と変化するのでは方向性が定まらない。ある程度イメージの変化に歯止めをかけて目標を固定化するべきだ。そのために理性がある。

 

ところで創作をしている間、つねに自分と向き合うことになった。自分は今なにをやっているのか。こんなことをして何になるのか。無意味だと悟ったばかりではないか。娯楽を金銭に変えるつもりか。それで食っていけると思っているのか。

これらの問題に対して自分は明確な答えを持っている。創作に意味はない。厳密にいえば自分が創り与えようとしている意味を信用できていない。また自分の生み出した創作が金になるとは思っていない。収益化するならもっと情報を集め、本格的に武装し、ビジネスでやっていく自覚を強く持とうとするだろうが、自分らしさの構築の過程で生み出されたジャンク品はそれらの文脈からは程遠いところにある(これらは車輪の再発明に近く、大抵の場合既知の手段に忠実になれば誰でもこなせるようなことである)。

何かを焦っている。創作には意味がない。意味がないことに時間を費やしている。「こんなことをしている場合ではない」。もっと社会的に価値のあることをして、自分の肯定感を満たすことをしなければならないはずだ。自分はまだそこに意味があると信じたがっている。

自分は実家ではなく東京にいるはずであり、無職でなく働いているはずであり、自明性の喪失ではなくただ中にあり、孤立ではなく迎合のなかにあるはずだった。そうして自分が社会から承認されなければならなかった。そう考えていた。

今やその理想とは真逆の方向に進んでいる。エゴの塊のように自分勝手な生活を送っている。家族の家と金に寄生している。挫折を勲章に何もしない特権を得たかのように振舞っている。自分が横暴になる。どんどん社会性が失われていく。

このままではいけないということは一番自分が分かっている。創作に身が入らないのは、やはりそれが逃避の口実であるとわかっているからだ。立ち向かわなければならないのは現実であり、最終的には空想ではなく現実の方を向かなければならない。

自分はもう既にいくつかの点でそれが可能であると言える実力を持っている。ただ不安、先の見えない恐怖、といったものを克服するにはまだ不十分なようだ。時代が刻々と変化するなかで、先の見えない恐怖、安定の不在といったものに頭をかき乱され、明確なビジョンを抱けないでいる。

この古典的な不安を克服する術を自分は知らない。かつて戦士は勝利の女神は我にありといって勇敢に戦った。あるいはどこかの国の民は、守護神が自らの共同体の繁栄を維持すると考えていた。今はその神と呼ぶべき救済の信仰が消え失せ、人間は己独りで答えを出さねばならなくなった。自分で不安を手懐け安心を与えなければならない。

この不安が創作ごときで克服されるとは思えない。だが他になにをすればいいのか。自分が現実と戦い、不安と戦い、克服しようとしているとどうやって証明すればいいのか。自分はまだ、自分の人生を諦めきれていないとどうやっていえるのか。自分には分からない。働けばその不安は解決されるのか。ゲームで強くなればその不安は解消されるのか。「自分のやりたい/やりたかったことをやる」という虚構のいいなりになればその不安はなくなるのか。

何も答えが出ない。あれほどもがいていても自分には何もわからない。ただ自分が創作という安全圏のなかで、主体性を回復しようとしているという事実だけは評価できる。主体性を確立することで自分の不安は緩和される。そこに疑いの余地はない。

だがそのことを妄信するほかにないのか。

234日目

今日は1日中ピストンコラージュをいじっていた。作曲知識はないが音を鳴らすだけでも面白いと感じていた。GB Studioに関係なく、こうした作曲自体を楽しんでもいいと思った。今後も定期的に音楽を作っていけたらと思う。

何となく音を組み合わせていたら日が暮れた。他のことをやる予定だったが急遽変更した。今日は新しいことに挑戦していた。今まで旋律を1つだけ作っていたが、今回は3つ作ることにした。3つの異なる旋律を音もリズムも合わせるのは難しいと思ったが、最低限聞ける音にはなった。

いくつかの簡単な音楽(ここではゲームボーイのBGMなど)を観察すると、ある規則に気付く。大抵が音の単純なパターンの繰り返しなのだ。短い周期と長い周期で繰り返し音やリズムを回していって、それらの相互作用で音に奥行きが生まれている。

これはゲーム音楽に限らず、自分に身近な音楽はほとんどそうであるように思う。紅白歌合戦で流れる演歌やミュージックステーションで歌われるアイドルの音楽もそうだし、よく耳にする童謡や民謡、何らかのアニメや映画の主題歌などもそうであるように思う(例外としてそうした構造的なリズムから逸脱した音楽も存在する。たとえばジャズやアンビエントなどはリズムの繰り返しを感じさせない。またクラシック音楽の中には現代の歌謡曲に感じられる、同じ構造の反復がない曲が多いように感じる)

おそらくこうした構造には専門的な名前がついているのだろうが、自分は何も知らない。だがともかくリズムや音の反復が簡単な作曲の要であることは間違いないように思う。極論を言えば、リズムや音を反復させていれば「それっぽい音楽」にはなるということだ。

そういうわけで今回はそうしたリズムや音の反復を意識して曲をつくってみる。

完成した。以前の曲に比べて更に音楽らしくなった。

作曲で意識したことは音の入り方だ。はじめ1つの音の繰り返しから入り、徐々に別の音の繰り返しを加えていく。それですべてなくなって振り出しに戻ってリピート(この構造は市販の音楽によくあるありふれた構造だ)。

またリズムも早いリズムと遅いリズムを入れた。速いリズムは高音で遅いリズムは低音にした。この差がおもしろそうだと思ったので意識した。あとは気分で作った。

3つの旋律を一度にまとめる上で心配だったのは音がごちゃごちゃしないかだった。もうひとつドラムを入れようかと思ったが、入れたらバランスが悪くなったので全部消した。また旋律も「くさみ」が出る部分は極力削除した。

「くさみ」について自分が思うのは、その旋律単独では成立しているのに、複数の旋律になるとその旋律が下手に目立ってしまい「わざとらしさ」を感じさせるといったようなものだ(単独自体でもわざとらしさを感じる場合もある)。自分が何も考えず作った際にもそういう旋律が何度か生まれたので処分した。この点が最も苦労する。調和するような音作りは難しい。

少し音楽に触れ過ぎた。明日はGB Studioに戻ろうと思う。開発の計画について簡単にまとめる。

 

233日目

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問題を難しく考えすぎていた。実際のところ、何が原因で音が壊れているかを理解すれば、解決は容易だった。

まずMilkyTrackerについて。GB Studioの公式によると、次のことが明示されている。

MilkyTracker users should save this file as an .XM file. Saving a .mod file in MilkyTracker will corrupt it. Export your song as a .mod file every time you want to test your song in-game.

If you're using MilkyTracker, please be aware that it can break how a .mod file can sound. To get around this, save as .XM, its natively supported format, and when you're done with the song, export it as a .mod song and try it out in GB Studio.

 つまりMilkyTracker上でmodファイルを保存していたことにより、ファイルがクラッシュしていたのだ。そこでXMファイルとして保存し、そのデータをmodファイルをエクスポートすれば解決できる。

 

だがそれすらやる必要がなかった。そもそもMilkyTrackerに頼る必要はなかった。ピストンコラージュをmodに変換してそのままGB Studioに導入することができた。

以前躓いていた問題は、変換した音楽が1周する際に音がクラッシュするという問題だった。一方でそれまでの音はすべて問題なく鳴っていた。ということは1周する際に何らかの問題が発生していると考えられる。

この問題について公式が言及している部分があった。

Q: I used a D00 effect on my last pattern to loop back to the first, but it's playing glitched in game after it loops once?

A: Use a Bxx effect. Using a D00 effect on the last frame will trip GBT into thinking there's more data beyond the song, making it read garbage data.

曲の末尾にD00と呼ばれるコマンドが置かれていた。以下の部分だ。

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この部分をB00に置き換えた。だが失敗した。以前のようなノイズではないが低音のノイズが入る。そこでC00もB00に置き換えた。だがそれも同じだった。

ひとつわかったことがある。とにかく曲の末尾のコマンド、この部分が問題なのだ。そこで思い切ってこの2つを外してみた。するとノイズは消え、問題なくループするようになった。

今回の解決策が妥当なものであるとはまだいえない。だがともかく、現時点ではGB Studioでの曲作りに際して次のことが言えるようだ。

まず「ピストンコラージュ」で曲を作る。ここで素材は意識する必要がない。曲を作ったらptcopファイルで保存する。それをPxtoneBoxに入れてmidiに変換する。つぎに「OpenMPT」を開く。そこでGB Studioに内蔵されている「Template」を読み込む。

そうしたら「Template」のシーケンスをすべて消去する。余分なものをすべて削除し、空白となった00だけを残す。ファイルボタンから「Append module」を押して先ほど作ったmidiファイルを読み込む。

チャンネルが多すぎるという通知が出るので、正確に4チャンネルになるまで減らす(チャンネルを右クリックして、remove channelからchoose channels to removeを選択すれば一気に消すことができる)。

次に重要なことだが、チャンネルごとに割り振られた楽器を選択する。

Channel # Sound type Note Range1 Instruments Effects
Channel 1 & 2 Pulses C3 to B8 1-4 0, B, C, D, E8, EC, F
Channel 3 Waveform C3 to B8 8-15 0, E8 and EC
Channel 4 Noise Only C5 16-31 B, C, D, E8, EC, F

 ここで述べられている通り、channel1と2では楽器は1-4、channel3では8-15、channel4では16-31を選ぶよう指示されている。この指示に従わないと、おそらく音が反応しないかクラッシュする(とはいえ楽器名にチャンネルが書かれているので見間違うことはおそらくない)。また楽器に限らず、Note Range, Effectsなどにも注意したい。

 先に述べたD00やBXXはeffectsに相当する。この部分についてはまだ詳しく理解できていないが、とにかく一旦削除する。これらがすべて終わったらmod形式で保存する。

最後にGB Studioを開いて所定のファイルを開く。そこに新たにつくったmodファイルを置く。GB Studio内で音楽を起動させるイベントを設定する。そしてテストプレイを行ってうまくいけば成功だ。

この手順が偶然のものでないことを確認するために、別の曲を用意した。もし問題なくこの曲が機能すれば、手順の再現性は担保されるだろう。

 この曲をptcopファイルで保存し、PxtoneBoxに入れてmidiに変換した。それをOpenMPTに読み込ませたTemplateにAppend moduleさせ、チャンネルを4まで減らし、曲の末尾のC00 D00を外した(速度は変更しなかった)。こうしてできたmodファイルをGB Studioに読み込ませ、イベントを設定しうまく起動するか確認した。

問題なく機能している(編集上のミスでリピートの部分を録画できなかった。面倒なので放置したが、問題なく音は鳴っていた)。

 

課題点について述べておく必要がある。まずは音楽のスピードだ。今回音楽の速さを調整したが、それはOpenMPTで隙間を埋めたからだ。全部手動だった。そうでなく、元々のスピードを維持する方法はないだろうか。おそらくこの問題については公式サイト、Discordなどを見ればすぐに解決できるだろう。だからあまり悲観していない。

次に音楽の組み合わせだ。チャンネルが4つある通り、音楽は4つのパターンまで作ることができる。今回は1つのチャンネルを作っただけだが、他にも組み合わせることができるだろうか。ピストンコラージュの段階で4つのチャンネルを設定したら、それはmidiとして問題なく変換され、OpenMPTでも問題なく機能するだろうか。現時点では分からないが、これからテストしていくことで判明するだろう。

最後に曲作りについてだ。曲をつくった経験がないので、自分は音楽理論について何も知らない。もしこれから何曲か作るつもりなら、少なくとも簡単な部分について知っておく必要があるだろう。

 だがともかく今回の発見は自分の作曲づくりに多大な貢献をもたらした。何よりピストンコラージュで作った音楽をGB Studioに読み込ませられるというのが大きい。この数日間でMilkyTrackerの使い方も学習したが、決して無駄ではないだろう。なぜならそのおかげでOpenMPTの仕組みが少し理解できたからだ。幾分遠回りをしたと思うが、とにかく音楽の問題は解決して安心した。今日は何もせず休憩する。