人生

やっていきましょう

413日目

自分が事実と呼んでいるものは事実らしきものでしかない。事実というラベルによって思考の方向性をある程度定めただけにすぎない。そこから先は気分に任せていて、吟味不十分のまま解決を妥協する。この場合、事実とはほとんど納得に等しい。

専門的な背景が存在せず思いつきと印象を述べることしかできない自分にとって、事実を述べるということは事実の理解に妥協した個人的な印象を語るということのみを意味する。印象は原始的な直感と直接的な経験による連想からある程度は事実に沿って描写されるだろうが、論理を徹底する思考や意思を欠いているために、暗黙のうちに認識の誤謬を抱いている可能性を含んでいる。

事実というものを自分の中で厳密に定義しないまま、事実に基づいた思考を求めている。また同様に事実を優先させる目的も明確にしないまま、現実的に考える必要性を訴えている。今の自分の現状を率直に言うならば、いかなる定義、いかなる目的も持たないまま、事実を優先させるという教義(ドグマ)を崇拝し、その自明性に基づいて内面上の世界を再構築しようと試みている。

これは自分の中で内面上の安定を緊急に確保する必要があるという要請から、かつて存在し今では使い物にならなくなった価値観に代わる新たなバックボーンを構築しようと試みた結果である。価値観というのは自明という宗教的な信念に由来し、価値に対する無謬性を信頼できるものである必要があり、自分にとってのそれは事実といえるもの以外の何ものでもなかったため、事実なる教義に鞍替えしただけの話である。要するに安定の根源を事実に求めたというだけのことだ。

おそらくこれが隠された自分の目的なのだ。安定のために事実を求めた。だから実際は事実を明らかにしたいわけではない。事実という圧倒的に不都合な手続きを自分に課した先の、信頼における認識、これを自分は事実と呼んで安心の根拠にしようとしていた。

しかし安心を得ることが目的ならば、事実に基づく必要はない。この指摘は正しい。事実は自らの信念の反例をいくらでもあぶり出すので、可能であれば事実から離れすみやかに都合の良い妄想の世界に入り浸ることが望ましい。自分の感じた素朴な好意は、事実に基づく評価によっていとも簡単に色あせる。事実は対象に対して好意を抱いているという以外のことを宣言しない。

しかし自分が自分であるためには、どうしても事実に基づく必要があると感じている。この根拠について不都合な答えを出すとするなら、自分の認識の粗を改善し尽くしたいという野望、自分が理解してもらえなかったというトラウマ、話の通じない人間に対する極度な敵対心、しかし自分もまた話の通じない無理解な側の人間であるということを認められない苛立ち、社会に対する見捨てられ不安、こうしたドス黒い感情を抑えきれず単に「背伸び」した人間になることへの恐怖と警戒(これは挫折経験から得た新たな答えだ)、そして(とてもくだらない理由だが)単に冷笑したいからという動機だろう。これらが自分の胸に事実という太い針を延々刺し続ける理由であるように思う。

これらは明らかに歪んでいる。不都合な事実を自尊感情の根拠にするということは、精神の安定を図るために自傷行為に及ぶことの矛盾に類するものだ。自分は安定しようとして更に傷つく。それでますます不安定になる。事実に対する安定した志向というのは、純粋な探究心や確かな向上心といった能動的な態度に由来する。これは違う。自分の価値観に自信が持てず確かな信頼が得られないから、仕方なく自分に不都合なフィルターを課しているように見える。自分が望んでいないことを自分に課している。これで安定するはずがない。不都合な事実を受け入れ続けていれば、ますます精神の安定は程遠くなる。

これまで見てきた中で明らかにされているように、自分が事実と呼んでいるものは不都合な事実である場合が多い。事実は大別して不都合な事実と好都合な事実の2種に分けられる。自分の場合、都合の良い事実を無意識のうちになかったことにしている。そして不都合な事実を事実と呼んでいる。そして不都合な事実に自分を晒し続け、それを自尊の根拠にしている。

これが問題だ。だから都合の良い事実にも目をむける必要がある。このことは今まで何度も強調してきたことだ。しかし自分は本当に自分を肯定することができない人間で、気が付けば自然と自責の材料を集めている。もはや病的といっていいくらい、自分は自尊感情を破壊し劣等感を増長させることに躍起になっている。

だから一旦、事実による無際限な言及を抑えることにする。そして事実を自尊の根拠にするという態度を改める。自尊感情は事実に対する痛ましいスクリーニングからではなく、自分が能動的に行う活動のなかで育んでいく。自分がそれを選び、それを実行し、それにより好意的な感情を得たという流れを意識する。それらは極力、社会の都合、世間の都合、他人の都合に左右されないようにする。とにかくそれが好ましく、自分が主体的に選んだということが重要だ。

 一方で事実に対する言及は続けていく。それは自尊のためではなく、自分が何かを勘違いし、道を踏み外さないためのものだ。事実を事実のまま受け入れるということ自体に問題はない。しかし事実と向き合い続けるには(それが自分に不都合なものであればなおさら)相当な精神的負荷がかかるということは無視できない。だから少しだけ事実を向き合う時間を減らす。安定が必要ならば、事実認識による自傷ではなく安定のための策を講じる。

412日目

精神が安定した。その点だけでも思考を変える利点はあった。このまま自己本位を徹底させる。自分の都合を優先させる。

自分はおそらく自他の境界が明確ではない。外部による長年の抑圧、隷従の結果だ。いま自尊感情を回復させるには自己を生かし他を生かすという理想よりも、自己を優先させる努力が必要だった。今まで前者にこだわってきたが、結局自分は生かされず、気がつけば自分は外部の都合で生きてしまっている。自分はへりくだるという姿勢が骨の髄まで染みついており、まだ他人と対等な関係を構築できる状態ではない。

だから今はすべてにおいて自分の都合を優先させる。人生が無意味であるというのは、おそらく他から見た自分の人生のことを指している。外から見れば自分の人生などゴミに等しいのでこの評価は正しいといえる。ただそこに自分の評価が流される必要はない。

様々な人間の様々な都合が自分の中に居座っている。これを極力排除しすべてを自己決定の支配下に置く。他人の感情よりも自分の感情を優先させる。

先日も述べたが、自分の正気と外部との健全な繋がりを保つには、地に足のついた思考を忘れないということが重要だ。反動が暴走し事態をより悪化させることがないよう、自分を管理する視点も忘れてはならない。これは他人の都合ではなく、自分の意思によるものだということを明記しておく。

411日目

自分を他者から分離するということがようやく分かりかけてきた。自分は必ずしも他人に適う必要はなく、自分を優先させることができる。

自分は他人の良き理解者である必要はなく、他人との繋がりを維持するために無理をする必要もない。必要であればすべて捨ててしまって良い。すべてを拒んでもよい。自分にはその選択を決める力がある。

自殺の問題について類似の考えを抱く。自殺というと親族への迷惑、社会への迷惑ということが歯止めになり、結局のところ他者の都合で生かされることになる。この選択権の無さが自分の意思を奪っている。自分は自分の意思を持って死を選ぶことができる。その力が自分にはある。これが自分の自由意思の証明になる。

それは生についても言える。自分は自分の意思で生きることができる。その力が自分にはある。こうした解釈を権利と呼んでも良い。自分は自分の選択によって立つことができる。

自分に権力を与える。自分が第一に優先される。いかなる社会の良識を前にしても、自分は常に世間に屈する必要はない。自分は自分の考えを持っている。意見が対立すれば戦う。価値観が合わず人が離れるならそれは仕方ない。

善意のために自分の心身を酷使する必要はない。自分は善意を自分の都合によって選択できる。自分の都合を優先させる。都合が悪ければ他人を切り捨てる。

これからは誰かに自分を分かってもらおうとはしない。他人は自分の苦しみを分かるわけがない。だから切り捨てる。自分の中から完全に遮断する。

遮断した上で人と関わることができる。自分の考えは他人に主張できる。自分が何を望み、どういった要望があるのかを伝える力がある。思考を停止して常に相手に譲り続ける必要はない。

ひとつだけ重要なことがある。いかなる状況下であれ、地に足のついた思考を努めるということ。これだけは絶対に失ってはならない。

今までの認知の歪みを考えると、その反動で過剰に自己を優先しすぎるあまり自分に都合の良い妄想とそうでない現実の区別ができなくなる可能性がある。今までの反動で他人に対して攻撃的でぶっきらぼうな態度を取りたくなるかもしれないが、それが他人に意味することを考えるべきだ。

それにしても自分を優先させることには変わらない。むやみに世間や他人の都合に合わせることはしない。自我に依って立つ。自分は世間の都合の良い奴隷ではない。

 

そうした目線に立ってふと思ったことがある。自分の知人には意外と個人を個人として扱ってくれている人間が多かった。このことには気づかなかった。今まで自分は他者一般に対し話を合わせ、機会を譲り続け、決して本音を言わず、提案にはほとんど何でも賛同してきた。かなりのストレスを自分に課したが、そうする代わりに自分が未だ知人友人の関係であると認めたがっていた。しかし他人は決して自分に対する関係維持のために無理をするということはしなかった。自分の都合を優先させ、断るときは断り、意見が合わないときは理解を示さなかった。自分はこの非対称に不満を持っていた。なぜ自分ばかりが他人の顔色を伺って何でも合わせなければならないのか。それで自分が相当ストレスを抱えているにもかかわらず、他人は他人の都合から出ようとしない。自分の苦労を分かろうともしない。そこに不当さを感じていた。

自分でもかなり気持ち悪い話をしている。だがかつてそう感じていた時期があったのは事実だ。それでも自分が他人の都合でなく、自分の都合によって生きるという目線に立ったとき、他人は自分を個としてリスペクトしてくれていたのだと気がついた。知人たちは自分と同様に相手もまた自分の都合で生きているという前提を持っており、迂闊に他人の都合に侵犯しないでくれていた。彼らは各々が自分の都合を生かしながら緩やかに繋がるという考えを無意識に持っていた。

自分はおそらく、そうした個人主義を前提としてはいなかった。ほとんどの人生をひとりで生きてきた身としては認めたくないだろうが、自分はどこか全体主義的傾向がある。個人が集まった時にはどこか集団の利益のために奉仕しなければならないと思っている。これは自分の積極的な意思というよりは、今まで所属していた集団下に適応しようとして身に付けた消極的な態度だ。

ある集団では同胞意識を強固にするために催し物を行うことがある。クラスの修学旅行、学校の学園祭、会社の飲み会、教祖による宗教行事、ゲームのギルドの集会。それらの参加を個人は選ぶことができるが、拒んだ場合には集団に対する反逆者とみなされ、構成員の心象は悪くなる。ニュースで似たような話題をよく耳にする。

自分は小さい頃からそうした状況下に生きていた。だから個人の都合で拒むことを恐れ、集団の奉仕者となるべくあれこれ忖度していた。そのストレスを抱えたまま別の集団に移行するので、いずれの集団の構成員も集団に資する態度を表明しなければならないと思っていた。気がつけば自分もまた集団のための奉仕を立案することに躍起になり、拒んだ者は反逆者とみなしていた。

自分が個を確立できなかった理由がそれだ。集団の奉仕者という他律的アイデンティティに支配されていたのだ。だがそれがすべてではない。最近自分は、自分を他者から分離して生きるということがどれほど精神的に楽か気付かされた。無論個人主義は万能ではないが、少なくとも自分が存在しない監視の目を恐れて集団のために無理をしなくて良いという点においては選ぶ価値がある。

自分はこれから自分の都合に合うときに限り相手に合わせる。何でも他人の意見を自分の意見と折衷する必要はない。拒むときは拒む。認めるときは認める。そうして生まれた対等な関係をもって世を渡り歩く。

 

 

410日目

生きている心地がしない。朝から希死念慮に駆られそれから何度も眠りについたが回復しない。1日中倒れていた。苦痛を感じる余裕もなく、膨大な虚無感が自分に重くのしかかっている。

突発的に2年前に経験した「溶けるような感じ」に襲われた。すべての安定を剥奪され方向感覚を失い宙づりにされるような感覚、どこまでも転落し続け、しかし着地することのない感覚を味わった。こうした過剰な不安に襲われたのは何か月ぶりか。直接的な原因は分からないが、突然すべてが無理だと思い始めてからこうなった。今まで不安を押しのけてきたが、自分は既に弱っており、遂に不安に屈した。

不安を感じやすい人間とそうでない人間がいる。以前ネットの知人に不安を感じたことがあるかと聞いたところ、感じたことはないと答える人間が大半だった。少なくとも何らかの生きづらさゆえに恒常的に不安を感じており、そのことで長年苦しんでいるという人間はほとんどいなかった。自分の所属に基づく偏った情報かもしれないが、自分はこのことで世の大半は人生を不安に支配されていないのだと知った。

不安を感じていない人間を観察していると、いずれも身の丈にあった生き方をしているということが分かった。決して身を壊すほどの全力ではなく、ほどほどの実力(しかし確かな実力だ)で達成可能な世界に生きている。そしてその見方に何ら疑いを持っていない。漠然とした自尊の世界に生きており、不都合な情報をシャットアウトしている。

ここから自分の問題点が見えてくる。明らかに自分は身の丈に合った人生を送っていない。実力分不相応でありながらハードルを下げることをせず、そのために無理をしている。現実と理想のギャップが激しく劣等感が強い。短絡的で何でも全力で取り組もうとする。留まることが恐ろしく、現状に甘んじることができない。それゆえ自尊心が傷つき壊れている。自分を守ることができず、自分に不利な情報ばかりが流れ込んでくる。

足るを知る、身の丈に合った人生を送るということは自分の目には妥協に映る。それが嫌だったのは、自分の劣等感を一刻も早く克服したかったからだ。大した努力をしなくても幸福感が得られるのであれば自分はそもそも無理をしていない。何をしても不幸なので必死にもがいて救われようとした。だが実際はもがくことばかりに意識が奪われ、何のためにやるのかという視点が欠落していた。結局自分は何をすればいいか分からず無目的なままもがき続け、遂には心が力尽きた。

分相応な人生を送る人間たちの、自明の幸福感に嫉妬している自分がいる。だが彼らが責められる筋合いはない。そういう賢い人生を送らず、生涯劣等感に苛まれる人生を送ることを選んだのは自分だ。すべては自分の愚かさが招いた結果なのだ。

彼らの賢さを学ぶ必要がある。自分は身の丈にあった人生を送る必要がある。これは妥協に甘んじるという意味ではなく、地に足のついた思考を行うということだ。何度も繰り返し言及し続けてきたことだが、自分の実力を正確に把握しないまま背伸びをしたり自責をすることは何の解決にもならない。志を大きく持つことは有意義だが、それが小説ではなく現実において為そうとするならば、現実を踏まえた思考が必要になる。実力を無視した目標は長期的に見れば失敗に終わる。自分はそれを身をもって経験した。

認めがたいことだが、未だに不安が恒常化し、精神が翻弄されるほど悪影響を受けているのであれば、一度ハードルを下げた生き方を受け入れても良いのではないかと思う。つまり1年ほど前に掲げた、難易度を極限まで下げた目標を達成することに満足するという生き方がそれだ。目標が問題なくできて初めて身の丈にあっているといえる以上、今までのやり方には再考の余地がある。自分は最近まで無理をし続けていたかもしれない。

しばらく自分の中での目標を下げる。精神が安定するまで無理をしない。焦りは極力抑える。今は自分の判断と責任をもって休むと決意する。

409日目

生き恥を晒すという言葉が今の現状を表すのに最も適切な表現であって、そのことを度々思い返す。自分が今生きているということは人間としての尊厳を捨ててでも泥水を啜って生きるということに等しく、世の中の人間に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。些細なことで満足し幸福を感じることがその場しのぎの忘却にすぎず、本当に向き合わなければいけない問題に対しては先延ばしをするばかりで根本的な解決には至ってないということを実感している。これらはすべて茶番にすぎず、仮初の満足によって生の肯定を演技している。

精神が既に死んでいる状態で何をしたところで無駄だと思う。本当に何も楽しめない。自分をこの世に繋ぎとめているのは単なる世間体だ。自分は挫折を通じて得た反省を生かして、試行錯誤の末に再び立ち上がるというシナリオを、世間に向けて発信している。こうした姿勢を世間に発信し続ける事で、自分は生の共犯者であるというシグナルを社会に向けて発している。自分は未だ、社会によって尊厳が与えられた人間でありたいのだ。

だから醜く茶番を行っている。今日は何km走った。そこまで自分に負荷をかけられた。それは自分が向上し自立することに資する偉大な決断だ。だから自分には生きる価値がある。そういう姿勢で生を肯定している振りをする。あるいはゲームでもいい。ダークソウル3をやった、Apexをやった、スマブラをやった。果敢に取り組んで勝利を掴んだ。他を圧倒するこの喜びがあってこそ生の実感がある。それで気分を良くする。だがそれも偽物だ。結局それが何になったかと振り返れば、何もないことが分かる。

何をしても、それが自分の人生に関わっているとは思えない。あらゆるものが自分から切断されている。実際は違う。自分が行動したこと、考えたことが自分の人生を形作る。だがそれに気づく前に、自分は素朴な解釈を自責と虚無によって白紙に戻している。何をしても消されるのだから、虚しくなるのは当然だ。

自殺についてしばらく考えていた。自分がなぜ未だ生きているのかわからない。自分は本当に生きている理由がない。新しい自分を見つけようとしてサークルの新歓に行ったとき、自分がなぜここにいるのか本当に分からなくなった経験と似た感覚がある。あまりにも場違いで、目障りで迷惑な存在が、少し関心があったという邪な理由だけで、なぜかそこにいる。そのことを居座る本人が一番分かっている。なぜ自分は消えないのか。結局そのサークルはあまりにも健全で輝いていたので自分は行かなくなった。同じことがいえるのではないか。この世界は健全で輝いていることが自明とされる。そこに自分がたまたま生まれた。自分はあのサークル以上に頑張って適応しようとした。しかし頑張って無理をしようとすればするほど、キラキラ輝いている世間に不釣り合いな自分というものが浮き彫りになってくる。その苦痛に耐えられない。自分はどこへいっても場違いな人間だ。どの集団に属し、どの人間と会話しても、自分がそこにいる自明さを感じられないでいる。だとすれば、なぜ自分は自ら撤退しないのか。そういう選択肢もあっていいはずだ。

別の見方もある。この世の自明とされている価値観がなぜ自明であるかといえば、支配的な価値観を持った人間が自明の網を張っているからだ。だから自分も同じように、自分に由来する自分独自の自明の価値観を持って、生存に参加していけばいいという考え方だ。これは妥当だと思う。合わない場所、合わない人間からは距離を取り、自分の満足が得られる状況を構築すればいい。それを否定する法律は今のところ存在しない。自由であることの利点といえる。

だからこそ一時期このことに心血を注いだ。自分は本当はやりたいことがある。だが今までそれを必死に隠し続けてきた。今こそそれを明らかにしそのことだけに人生を注力する。そういうつもりで今度は独自性の探求へと向かおうとした。だがこれも無駄だった。明らかに自分のやりたいことは死滅し、「やりたかったこと」に変わっていた。本来の自分、本当の自分とよばれる原始の願望も、長い年月をかけて抑圧されすぎたことで使い物にならなくなった。これも例のサークルと同じ違和感だ。自分の中で価値が死滅していることが分かっていながら、必死の救命活動のつもりか自分はそれが本当に楽しんでいると思い込もうとした。だがそうすればそうするほど惨めになる。かつて幼い頃自分を支えていたであろう素朴な関心は、もう生き返ることがなかった。なのになぜまだそこに居座る必要があるか分からなくなり、すべてを捨てた。

自分の居場所がどこにもない。世間からも弾かれ、自分からも弾かれ、最後に自分に残されたのは生存しているという一点だけだ。これを捨てて生存を終わらせるか、僅かに残された可能性を持ってまだ生きるかを近いうちに選ばなければならない。いずれにせよ、なぜ自分がまだここにいるか分からないでいる、ということは事実だ。これまでのように自分がここに居るのは不釣り合いだから逃げるのか、今までのやり方とは別の新たな道を模索するのかを検討する必要がある。

自分の僅かな可能性について最後に記す。これまでの試みはいずれも他人本位であったという事実がある。世間一般の価値観に適応しようとしたことや、自分のやりたかったことを発掘する試みは、すべて他人からの勧めを起点として起こったものである。それに対して自分は何となく受け入れていたが、それらは自分の決断によって得たものではなかった。要するに自分の軸の構築を他人に委ねてしまっていた。

大体こうした人間は後になって自分の軸を他人に委ねたことで失ったものに気づくと途端に激高し、すべて他人のせいにするというのが通例だ。これは自分にもありがちな悪い傾向だと思う。確かにそれは事実の一面であるかもしれないが、その軸を他人に委ねた自分の責任でもあることも認めなければならない。幸い自分はそのことに少しだけ気づいている。だからどんなに親しい人間であっても他人を切り離して考えるということを実践した方がいいだろうと考え始めている。誘いや提言に対して何でも受け入れるのではなく、自分の判断、自分の決断を必ず介入させる。時には流されてもいいのだが、自分が根拠をもってそれを支持したということを常に確認する。自分はこう考えるということに責任を持つ。責任を持つ限りにおいて自分は自分を主張することができる。

要するに、世間の価値観に適応するのでもなく、かつて自分に関心があったものを、対人関係の維持のために今でも関心があると嘘をつくのでもなく、何者にも侵犯させない自分というものを構築するという可能性だ。そのようにして得た強い自分をもって世界や他者と関わっていくことができれば、自分はまだ死なずに済むかもしれない。

ただし淡い期待だ。本心を言えば死にたくないが、これ以上自分が場違いであるという感覚に精神をやられ続けるとどうなるかわからない。自分が正気を保っていられるうちに、妥当な選択を見極めていきたい。

408日目

今日も長距離を歩いたがルートを少し変更した。今までは駅から市街地を直進するルートだったが、今回は家から川に向かって川沿いのランニングコースを直進するというやり方に変えた。

これで気晴らしになると思ったが、これが失敗だった。川沿いのランニングコースは風景がほとんど変わらず、元々はビルや建物が生んでいた日陰となる場所がまったくなく直射日光を常時浴び続けることになった。それで昨日と同じく熱中症になりかけた。また途中で寄ることのできるコンビニが近くになく、水分補給もできなかったので相当過酷なコースだった。

目的地に着いた後に公園を2kmほど1周したが、その頃には心身ともに果て憔悴しきっていた。昨日も同じことを考えていたが、運動は体力を使い果たすと逆に精神が良くない状態になりそうだと思った。3日連続で毎日炎天下を10km以上歩いているが、風呂に入ってリラックスし食事を摂ったあとでも精神がやや不安定だった。

自分のキャパを超えた運動は逆効果であるように思う。何事も全力を尽くして果てるのではなく、これからは少しだけ余裕を持たせて運動に臨むようにしたい。今回余裕が無かったのは、水分を取らず直射日光を浴び続けたことが原因かもしれない。次回以降は喉が渇く前に水分補給を取り、なるべく日陰の道を選びながら走るようにしたい。歩く時間帯も再考する必要がある。

 

407日目

今日も長距離を歩いている。家から遠くの公園までを目標にまっすぐ1本の道を進んできた。厳しい道程だが毎日歩いているので体は慣れている。

今日は直射日光を浴びながら水分を取らずマスクをして歩いていたので軽い熱中症になっていたと思う。気分が悪く意識が朦朧としていた。次からは人混みを避けた場所でマスクを外し、適度な水分補給をする必要があると感じた。

またどういうわけか、歩き切ったあとに精神が不安定になった。強く孤独を感じ、心が苦しくなった。ふと、自分は承認を求めて敢えて危険を冒しているのかもしれないと思った。そういう側面は確かにあっただろうが、今まで見えてこなかった。もしそうだとしたら危険だ。これでは他人のために走っているようなものだ。

対人関係でも思ったことだが、承認のために自分のやりたいことをねつ造するという態度は望ましくない。他人からの承認などは二の次で、まずは自分が何をやりたいかという感情に向き合うべきだ。長距離を歩いているということは誰の為でもなく、自分のためにしているということを意識した方が良い。それがいかなる批判に晒されようと、自分が適切に判断して妥当だと認める限り、自分のものであると宣言する。

自分のやりたいことをするということはある種の反逆で、他人の都合よりも自分の都合を優先させることであるように思う。当たり前のことだが、その結果他人に悪く思われる場合もある。自分はどこかそれを恐れ、他人の都合、社会の都合を生かそうとしてきた。だがそうした態度が自分を見失わせ、どこまでも人に断れない都合の良い人間に自分を仕立て上げたのは事実だ。

こうした自分らしさを形成している貴重な習慣を、孤独を感じた程度のことで放棄することほど愚かしいことはない。孤独を感じている自分は受け入れる。だが自分は敢えて反逆する。それが今の自分に必要なことだからだ。反逆の度合いが大きくなれば、自分が確立されてくる。自分はそう考えている。