人生

やっていきましょう

5日目

幼年期の終わり』を読んだ。この本を読破した時の衝撃は今も忘れられない。あやうく自分が穢れて醜い現実逃避真っ盛りのブタであるという自認を失いかけた。しばらくそういう社会意識どうこうに何ら価値を見出せなくなっていた。

小説の内容自体は新しくない。宇宙からやってきた人間の上位存在が人間を支配するという話だ。だがこの小説は現在のアニメや漫画が風呂敷を広げまくってとてつもない宇宙の全体性について言及しようとするときになんとなく共通して見せる、あのスピリチュアルな世界観を鋭く植え付ける。言い換えればその源流のひとつがこの小説というわけだ。

評論や感想文は他のサイトがやってるのでそこに丸投げするとして、ここでは自分の問題として捉えなおす。この本の気に入っているところは自分が日頃考えていた問題に対して真正面から立ち向かっていき、かつ自分の想像を超えた奥行きを見せてくれたところだ。つまり「我々はどこへ行くのか」。

この問題に対してこの本は暗に二つの道を示す。オーヴァーマインドかオーヴァーロードか。人類はオーヴァーマインドの側に立った。しかし明らかに自分はオーヴァーロードの視点で物語を見ていた。

詳しいネタバレは避けるが、オーヴァーマインドは全体性を突き詰めたら行き着く先であり、オーヴァーロードは個を突き詰めた先の答えだ。オーヴァーロードはけっしてオーヴァーマインドにはなれないと思っている。それどころか自らを皮肉にもオーヴァーマインドによって刈られるべき「悪性腫瘍」であるとさえ自認している。そしてそうでない地球の人類を羨んでいる。

個人は知性と行動を武器に自らの支配可能な領域を拡大しコントロールする。その維持と発展の為に人生を費やすといってもよい。だが宇宙は、そんな小手先の武器でどうにかなるほど狭くはないし単純でもない。宇宙は個がどうにかなるものではない。それは地球に降り立った巨大な円盤、ヨナの鯨、蟻の砂漠、人を浚う津波、NGS549672の山、オーヴァーマインドに象徴される圧倒的全体に対する個の無力だ。

しかしそれでもオーヴァーロードたちは個の勝利を信じている。いや、信じ込もうとしている。それは単なる直感ではない。個は全体に対して圧倒的に不利でどうにもならず、自らはけっして全体にはなれないと自覚しながら、それでも細部に目を向け全体に反逆しようとしているのだ。本作でオーヴァーロードは悪魔として描写された。もちろんこれは人類に知恵をもたらした蛇、悪魔の自由意思、全体への回帰を求める神やその宗教を前提にしていると見れる(悪魔が神の「遣わす」一部であるというのも)。どうもキリスト教ネタを踏襲しており内心ほくほくしているが、それはさておき彼らは個を信じ全体を抜け出し、どうにか自由を獲得しようとする。しかし終盤で、自らの種族の運命に対して悲観を漏らす。彼らに残るのは虚無だ。膨大な宇宙に対して自分たちが制御できるものはノミ程度しかない。それより意識を失ってヤクキメてトランス状態にでもなればいいんだが、知性がそれを許さない。コントロールの放棄は個の自由意思を殺すことになるからだ。哀れ、悪魔たち。

このあたりの生々しさが痛いほどよくわかる。小学校のクラスから始まり人間関係の失敗や挫折。厨二になるしかねーじゃん。一浪してまで田舎からレベルの高い大学を目指そうとするあの命懸けの努力は十分悪魔的だった。自分は自由でありたかったし、コントロールしたかったからだ。しかし皮肉にも大学4年間で最も記憶に残っている、浅学を鼻で嗤う教授の接待めいた講義で学んだ米粒程度のヴィジョンといえば、19世紀以降の大きな物語の終焉や神なき時代の実存主義だった。世界は虚無だぜって無責任に言われて就活に突入したので見事に死んだ。文字通り人生が終わったのである。要するに、自分はついに全体の恩恵を知らぬまま自らがノミ程度であることを立証してしまったのだ。

この本を読んだとき真っ先に浮かんできたのは全体性への誘惑だ。つまり、宗教の本質がまさにそうであるように、全体の一部になりたいという本能的欲求を想起させた。しかしさっき述べた通り自分はオーヴァーロードの立場から見ていた。著者のアーサー・C・クラークも「本文中に示された見解は、著者個人のものではない」とわざわざ書き残しをするくらいだから同じだと思いたい。この物語はクラークが全体への回帰を説きカルト啓発を狙って書いたものではない。加速していく不毛な個人主義自由主義、その果てしない欲望にけっして満足するわけでもなく、かといって全体にもなれない、宙ぶらりんで何もできず、ただ冷笑をキメ込む人間のためにこそ書かれたものだ(そうであってほしい)。

自分はどうあれ全体の一部にはなれない。その才能がないのだ。だがそうであるとして、個人はこれからどうすれば良いのか。そこが自分の争点だ。本作では理性は行き詰まると説いた。彼らはもはや成熟しきってこれ以上発展しないのだ。個を突き詰めた先には何もない。ひとりで虚無に直面するだけだ。しかしそれでも自分は能動的に突き進むことにした。これは実に滑稽な話だ。虚無を虚無と知りながら不要な傷を負い僅かに変化するだけだからだ。それが進歩とは限らない。全体からすれば噴飯ものだ。だがそれでも、自分は自らの意思で変化をもたらしたことを証明したいのだ。社会でなくとも個人でいい。自分が動くんだということをただ確認したい。

そう、自分もオーヴァーロードと同じように自分の前進を弱々しく、必死に意味づける他にない。その醜悪な様を全体に曝け出し、一歩一歩虚無に近づいていく。