人生

やっていきましょう

28日目

今日は1週間を振り返る。習慣をあまり変えてなかったので、特段何か変わったことはない。小説を書くということも忘れた。書こうと思っても書けなかった。筋トレは続けた。意味はよく考えなかった。定時に寝ること、風呂に入ることはよく忘れた。なにか対策がいるだろう。

ずいぶんと長い間、自尊心を保つための努力をしてきた。客観的に見て、その間は幸せだったと思う。だがその幸せはそう長く続かないだろう。自分は一度壊れ、その傷はもう元には戻らない。今自分に与えている精一杯の慰めには、何の意味があるだろう。自分は回復を求めているが、どちらかというと末期医療に近い。もう治らない状況で、今世に残る最後の満足と共に痛みのない安らかな死を待っているのだ。

習慣があらゆる行動の基盤になるなどと考えていたのは遠い過去のことのようだ。それはひとつの真実かもしれないが、だからといってそれが自分に明確な動機を与えることはなかった。あらゆる苦痛を前にして、自分は欲望を素直に受け入れることができなくなっている。

以前刺激について考えていた。刺激は欲望を喚起させるひとつの要素だ。だが刺激とは本来自分の意識に関わらず存在する。だから自分が望むまでもなく、偶然その刺激と遭遇するのを待つことだってある。自分に欠落しているのは望むという主体的態度だ。映画を借りるとき、この映画と決めて借りることはない。陳列された映画の山から、自分の過去の蓄積と照らし合わせて相性の良いものを選んで借りる。すべて偶然だ。自分が選んだわけじゃない。映画を見れば刺激の回路がどんどん広がり主体性が回復すると思っていたが、実はそうではなかった。刺激に対して偶然という戦略を取るということが、以前にも増して強化されただけだ。これは自分の意思と決断で選んだことではない。

すべてのことが偶然のように思える。だから主体性というものを持つことができない。自分を決めるのは自分でなく偶然が決めることのように思える。この習慣だって自分の意思と決断などと偉そうな口を叩いて体裁だけは整えているが、実際そこには何も目的はない。記録も明白な目的の完遂ではなく偶然の気分から答えを得ようとしているだけだし、筋トレだって気まぐれだ。本を読む動機も偶然アイデアが浮かんでくるようにするため。寝るときだって気まぐれで決めている。寝る時間を決める理由なんかない。健康な精神を維持するためだろうか。だとすれば何のためか。結局それは行動の可能性を広げただけにすぎない。ただ可能性を広げるための決断だ。すべてがそうだ。だとすれば疑問が残る。自分は今どこに向かっているのだろうか。

偶然という波にさらわれて、自分がどんどんおかしくなっていく。映画を観たいだけ観てゲームを遊びたいだけ遊ぶというこの平和は長く続かない。自分は偶然こういう状況にあるだけなのだ。それを維持する動機も発展させる動機もない。主体性を持つことのできない脆弱な精神が、思いつきで始めた習慣程度で鍛えられるとは思えない。この1週間はそんな無力感をうっすら覚えていた。

それでも習慣は維持していくつもりだ。習慣は仮にも自分が主体性を持って決断したと思える最後のよすがだからだ。自分が自分であるために自分で決断したという積み重ねが必要だ。そうすれば今より少しはマシな未来があると思う。