人生

やっていきましょう

29日目

今週の目標を変えることにした。就寝時間は2時にすること、そして新たに1日1回は創作活動をすること。就寝時間については前述した通り、1時に寝るという口実が全く意味をなさなくなっているため比較的実現可能な目標に設定し直すことにした。創作については習慣に潤いを持たせるために試験的に用意することにした。今まで創作活動は自発的に行えると思ったが、あまりそういうわけにはいかなかった。自尊心のためとはいえ働きもせず娯楽に身を浸し、その上空想小説や陳腐な絵を描くなどというのが、どうにも恥ずかしいことのように思えたからだ。

しかし自分が自発的に決断するという習慣づけが当初の目的であったことを考えると、創作は自発的な習慣づけとしてかなり自分に適しているように思える。というのは、創作というのは限りなく自発性が求められる行為だからだ。

そもそも創作を端緒とする文化というのは総じて社会の余剰にすぎない。つまり、決してやる必要のない行為だ。社会的な観点から言えば、創作は食や住まいを得ることよりも優先されることはない。「人はパンのみにて生くるものに非ず」というのは建前だ。人間はまず生きなければならない。だから創作の意欲は、我々が飢餓状態で精神の安定を求め彷徨い歩くほどの渇望には、決して至らない。

つまり創作は、常にやってもやらなくてもいいという宙吊りの状態にある。創作で食っていくなどというのは余程生活に余裕があるか、自らの狂信に無自覚なのだろう。そうでなければ、創作は常にこの余剰の感覚にあるはずだ。そして大抵、この意欲は長くは続かない。あってもなくても良いことだからだ。しかしそうなる人間の性を自分は軽蔑したりしない。自分もそんな人間のひとりだからだ。今の時代、戦争という鋭い創作の動機もなければ、宗教という神に至る道として開かれた詩的天啓も存在しない。すべてが機械化され、ヴァーチャルになり、世界はモノとサービスに溢れ、創作はただ客を喜ばせるだけのサービスに成り下がった。そんなはずはないと文学性、作家性を求めるマイノリティは、過去の深刻な動機に身を擦り付け死体の文学を崇めている。

現代の混沌を生きる処世術として、広く浅く混沌の渦を楽しむか、深く遠い過去に逃げ現実から目を背けるかという態度が目立つ。そんな時代に創作をやるというのは何かの冗談であるとしか思えない。そんな冗談に本気で人生を費やそうとする人間がいるのだろうか。しかし、だからこそ、これほど自発性が求められる時代もないだろう。何もしないでもいい人間が「敢えて」何かをするというというのは現在の、ひとつの核心的な特徴だと思う。この「敢えて」というのは何らかの正当化を要求する。しかも、その場しのぎの浅い動機だ。長くは続かない。そのため浅い動機を必死に延命させるために自己啓発や憧れの人間の言葉を吸収し続けるしかない。惰性は悪と断じ絶え間ない時間と労力の投資を美化する宣伝文句を自分は何度も耳にした。その度に高揚し、その度に落胆した。すべてが「敢えて」なのだから、どこか他人事のように思えてならない。

今から自分がしようと思っている行為はすべて「敢えて」でしかない。単なる逃げの口実かもしれない。しかしいかなる狂信的な信仰も持たぬ以上、この「敢えて」から逃れられる術はない。自分は今日から「敢えて」創作をすることにした。「敢えて」やめようと思うまで、この不毛な活動は続くと思う。