人生

やっていきましょう

20日目

今日はずっと図書館にいた。昼から5時間くらい本を読んでいた。長い間似たような本を読んでいたので、嫌になって帰ることにした。帰り道、ふと読書やめたいと思った。ずっと続けてきたがそろそろ面倒になった。それをあっさり自分の感情として認めることができた。

今まで本を貪るように読んでいたが、急に面倒になってきた。本は楽しいが、読むのが億劫だ。本を読むという作業は、行動様式がなにもかも簡略化された現代においては実に不向きなことだ。本を読む意欲を持続させることはゲームで遊んだり映画を見るより難しい。読んでいる間はそれに集中しなければならない。集中している間はそれを読みたいと思い続けなければならない。それが難しい。本を読むということは、インターネットやゲームはおろか、テレビやマスメディアといった娯楽が存在しない旧世代においても存在した古い習慣だ。昔は室内といったら本と酒とトランプくらいしか娯楽がなかった。しかし今はもっと多様化している。

我々はテレビに加え、ゲームや映画や漫画、音楽、ネットサーフィン、ツイッター、その他大勢の娯楽に対する誘惑と戦わなければならない史上初の世代だ。限られた時間のなかで数ある娯楽のうちに読書を選び、その優位を確立して、これを宣言できる人間がはたしてどれだけいるのか。今の同期で本を読む人間など、悲しいまでに知的好奇心に取り憑かれているか、単なる見栄で読んでるだけか、よほど時代錯誤な連中に違いない。さもなければ意欲は娯楽の消費に向かうのが常である。

あらためて自分の同時代性を確認した。自分も読書は面倒だと思うのだ。読書からさっさと抜け出したい。バカみたいにゲームをやる方が楽しいし、ツイッターやった方が面白い。音楽や映画見た方がよっぽど気分がリフレッシュする。読書なんてクソくらえだ。偉そうにダラダラ説教垂れるな。哲学?知るか、どうせ誰にもわからん。だろ?だったらやめちまえ。

たぶんそれが自分の本音だ。思考を放棄して暇を潰す娯楽はいくらでもある。そこでなぜわざわざ読書を選ぶのか。その理由は何か。自分は家に帰ってから注意深く考えた。考えれば考えるほど分からなくなった。それでやめた。しばらくネトゲで遊んで寝た。それでわかった。読書は自分の知的水準、知的好奇心を大学生時代のレベルのまま維持する唯一の方法だ。社会に出る期間が長ければ長いほど人はますます自らの知的好奇心を自らの手に委ねられる。放っておいても知的関心が維持されるというのはまずなくなる。それは学生の間だけだ。ますます視野狭窄になり、自らの周囲と欲望だけが世界と自分を肯定すべき根拠のすべてとなり、自分はある種の偏見の持ち主となる。その偏見は自らの正しさを裏づける無自覚な偏見だ。それが嫌なのだ。自分は情報においてあらゆる方面に開かれていたい。新しい情報を取り入れて常に自分を変化させたいのだ。そしてその変化の中で常に自分の中で正しさを構築し、時にはそれが間違っているかもしれないと不安になりたい。これこそ知に誠実な態度というものだ。

自分は知に誠実でありたい。これは自分のアイデンティティの核に近い信条だ。だから無理をしてでも本を読むべきだと思う。根底に知を欲する意思があるのなら、それを求めて持続させていくべきだ。そこまで賢いわけでも知識があるわけでもないが、つまりバカだが、知を求めて悪いという法はない。そういうわけで読書の習慣は続けていくことにした。とはいえ、正直そこまで気にしていない。明日になればまた勝手に読みたくなってるだろう。