人生

やっていきましょう

31日目

今日は小説を書いた。短編を1日1本書いている。小説というには不完全なものばかりだが、書いていて面白いと思うときがある。とにかく何を書いてもいいというのは開放感がある。自分がどんなクソを生み出そうが自由なのだ。創作は自由だ。なにをやっても自由なはずだ。それが創作の第一義にある。

しかしこうした創作的態度は日に日に薄れつつある。創作活動に参入する者が増え、商業的な性格を帯びてきてから、創作は競争原理を取り入れはじめてきた。創作はそもそも「読んでもらえない」ものとなった。無数の創作の中でとりわけ目につくものを選ぶのが常だ。著名人が書いたもの、ランキングの上位者、受賞歴のある作品などだ。そこで作り手は、評判という権威の傘に入るか、作品の評判を自ら広報しなければならなくなった。

この点に対して不満はあるが、自分に愚痴を言う資格はないと思う。自分だって書店で目立つ本ばかりを読んで、古典の名著を読み、大体有名な映画ばかりを見ている。美術館だってそうだ。美術館はキュレーターがつけた名前だけが陳列されていて、それを目当てにわざわざ見に行くのだ。これらは広報されたものであり、自分は評判に誘惑されたのである。

評判は他人がいなければ発生しない。受賞と推薦、そして広報という他力がなければ創作は無名という地平に立たされた作品のひとつにすぎない。評判を剥奪された創作は裸の王様だ。我こそは神であると言うのに等しい。そういうのを見ると途端に茶化したくなる。けれどもまさに自分もその地平に立っているのだ。

読んでもらえないという事実から、読んでもらわなければならないと思い始めた時、自由な創作は一転して評判を得るための手段となる。そうなると、読者を選ぶような創作よりも読者に選ばれやすい創作を作る方が有利だと気づく。まさしくビジネス的な発想だ。この感覚に支配されたら評判ばかりを気にする日和見作家になる。が、かといって評判を無視し続けていたら無名の堅物で終わってしまう。

要はバランス感覚だが、この種の悩みは作り手に共通する普遍的な悩みらしい。作家性か商業性か、純文学か大衆文学か、抽象的な現代アートか、分かりやすいデザインか。この選択には答えがない。自分の価値観を押し通す堅物を日和見作家は笑うことはできないし、逆も然りだ。結局、自分がどうしたいのかということを判断の軸に置くしかない。そしてただ選択していくだけである。志向の変化には身を委ねた方がいい。無理して一貫性を通す必要はない。創作の場合、自分の現在の価値基準が最大限の根拠であるべきだ。

自分はというと、どちらの方向にも魅力がある。分かりやすい話はあまり考えなくとも浮かんでくるし、重厚で難解な話は自分が捉えている固有の時代性を表現する動機に繋がる。どちらも捨てがたいが、それゆえどっちつかずの場合が多い。自分の作品は見ていて曖昧な印象を受ける。方向性が明確ではないからだ。

今のところ折衷的になってしまっているが、今後書き慣れていくうちに方向性が定まってくることを期待している。とりあえず今は評価云々よりも自由に書きたいという思いが強い。技量も足りないので実験的に書いている方が気が楽というのもある。

最後に最近書いている短編小説を紹介して終わる。この作品はアイデアの断片を書き留めただけのものだ。したがって小説ではない。しかし最近書いた話「ウンコ・ドラゴン」は今回の記事で題材にした名前と価値をテーマにしているため、記事との繋がりを感じられると思う。あまり推敲しておらずひたすら思いつきで書いてしまったため、文章に粗が目立つがご承知おき願いたい。

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