人生

やっていきましょう

34日目

体調がまだ悪い。習慣をこなすことができなかった。精神状態は悪くなかった。自責をする気分ではなかった。具合が悪すぎて正常な判断ができず、徹夜でゲームをしてしまった。余計に具合が悪くなった。

何かを書く気力がない。それでも最低限のことは書くつもりだ。今週は図書館に一度も行かなかった。明らかに読書離れが起きている。知的好奇心が身近な娯楽に淘汰されている。娯楽は安定の手段であって目的ではないということを肝に命じておくべきだ。図書館に行って常に頭の中を更新し続けなければならない。さもなければ自分は停滞してしまう。

運動はよく続いた。運動は頭を使わず体力を使うだけなので、あまり深く考えることがなくて済んだ。何も考えないということが、時として救いとなることもある。考えた末にはいつも虚無がある。何をしても無意味だという、自分の中ではごく当たり前の事実だ。思考を停止したとき、虚無感は薄れ欲求に素直になれる。人間は虚無の自覚に至らない程度に欲求に従い続け、定期的に満足を得るべきなのだろう。なぜ自分は欲求に従わなければならないのかという疑問は判断停止して、どうすればより多くの欲求を効率的に獲得し満足できるかということを考えられる人間の方が人間に向いている。このありふれた信念により、社会は回っているのだ。それを自覚するべきだ。

睡眠は気まぐれだ。2時に寝ることはおおむねできたけれど、自発的に寝ることはできない。何か強い外的圧力がない限り、大抵の人は自ら行動は起こせない。定時に起きる必要性は、実は企業や学校による拘束に由来する。他人に基準を決められて自分の基準を生きることがなかった頃、外の基準は絶対的な真理だった。それは支配でもあったが、寵愛でもあった。そのルールが行き届いている限り、自分はあらゆる複雑な思考をシャットアウトし、ただひとつ、定時に起きて外に出るということだけを考えるだけで良かった。そのルールを守っていれば、リズムが崩れることはない。虚無について考える前に行動が先に出る。世界はそこで完結する。しかしそれがないとどうなるか。機関が強いる習慣とは、その正当性を契約という形で合意する代わりに、習慣の維持を自分に代わって担ってくれるというものだ。自分ひとりでは「してもしなくてもいい」という宙吊り状態になることに「しなければならない」を与えてくれるのが機関だ。機関が存在しなければ「してもしなくてもいい」宙吊り状態になる。そこに決定打を放つ動機はなかなか芽生えにくい。

習慣を外注しなければ自前で用意するしかない。自分で何を「しなければならない」かを考える必要がある。そのルールを守る正当性はどこにもないが、しかしそれが絶対的な真理であると盲信しなければならない。企業のCEOや大学の総長のように、自分で自分の理念を設定しなければならない。その労力は並のものではないが、自分が今置かれている現状を考えるとそうするほかにない。