人生

やっていきましょう

16日目

今日から筋トレを始めた。知り合いがバーピーを強く推していたのでそれを選んだ。15回で1セット、これを3回繰り返した。とても激しい運動だった。ものすごくハードだったし、汗が信じられないほど出た。息切れを起こして目眩がした。終わった頃には筋肉痛がひどかった。しかもその筋肉痛は1日中続いた。ずっと疲れていた。自分は困った。これでは本を読む気力がなくなってしまう。この日は本を数ページしか読めてない。シオランの難しい本だって、いつもは神妙な気持ちで読むのに、そんなんどうだっていいだろと思いながら寝た。疲れていたて、とても死や虚無や自殺について考える気にはならなかったのだ。

ハードな筋トレは自分をリフレッシュするのに最適だ。運動の後は気分が良い。複雑な思考より単純な欲求が輝いて見える。運動後のカルピスがなんと美味かったことか。そのまま風呂に入りたいと思ったし、それを拒む理由もなかった。風呂から出たら寝たくなった。すべて単純にことが運んだ。人生の虚しさと無縁な人間は、おそらく筋トレをやっているのだろう。疲労で思考を鈍らせ、欲求が虚無を覆い隠してくれるからだ。

この後寝ないで映画を見ることにしたが、これは失敗だった。映画でもハリウッドのアクション映画だったらまだ良かったが、よりによってタルコフスキーの芸術映画だった。『ノスタルジア』という極めて難解な映画だった。これを2時間見た。正直見る時を間違えた。筋トレの疲労でセリフが頭に入ってこない。同じシーンを1分くらい長々と写す場面が続き、いつもなら多少の妙を感じるところが、眠いとかすげー退屈とか早く次のシーン行けとか思っていた。極めて短絡的な発想しか出てこない。

話の筋は主人公がイタリアでドメニコという狂人に出くわし、狂人に自分に似たようなところを感じて心を惹かれていくみたいな話だった気がする。ドメニコは世界の終わりから身を守るために家族を7年監禁したという相当ヤバいオヤジ。周りが彼をキチガイ呼ばわりする中、主人公は頭はおかしくなってない、彼は誰よりも真理に近いところにいる、などと直感的に思ってしまいドメニコに近づいていく。さてその真理とは何でしょう、制限時間120分でお答えくださいという映画だったが、知らねえよアホという感じだった。いや、この映画の問題意識が悪いのではない。疲労状態でタルコフスキーを見ようとした自分の浅はかさに問題がある。ただそういうアホなことをしたときどういう感想が生まれるかは興味深い。だからついでに疲労状態で記録を書いてみる。

疲労状態で何かを見るとき、欲求を喚起させないあらゆる要素がすべて等質に見える。頭が冴えているとき、映画に散りばめられたあらゆる要素に意味を見いだそうとする。これは何の象徴で、暗にこのイメージを喚起させたいのだと。芸術作品の見方としてこういう態度は至極当たり前のものだ。しかし疲れていれば、それら一切が無意味に思える。霧がかかっていれば霧がかかっているとしか思えないし、雨が降り水溜りに水滴が落ちていればザーザー降ってピチャピチャ鳴っているとしか思えない。すべてがそうだ。しかし意味を取り出して解釈をしたのち元の場所に嵌め込むような場合と異なり、すべてが無意味として、そのままの状態として全体がまとまっている。すべてが統一されたひとつのまとまりとして見えてくる。これは疲労状態でなければ味わえないと思う。理性を放棄してただ感性のみで味わうことで、言葉にならない何かを言葉にならないまま、ストレートに受けとることができる。そんな気がする。

さすがにこれ以上はスピリチュアルなヤバい領域に突入するので引き返すが、とにかく芸術を鑑賞するとき解釈する気力がないほど疲れている際に見るのも新しい発見があって面白いということがわかった。今後も気が向いたら試そうかと思う。

最後に今日の楽しかったことをまとめる。今日楽しかったことは映画だ。だからもっと映画が見たい。映画には様々なメッセージが込められている。だからこれからも映画を見る習慣は持続していきたい。