人生

やっていきましょう

44日目

不調が続いている。しばらく一人の時間が欲しい。このところうまくいかないことが続いた。反省が必要だ。ほとんどの場合、自分の注意が欠けて起こったことだと思っている。注意欠陥は昔からある。注意と衝動をコントロールするには習慣の力が必要だ。

今日は目標について考えた。今まで自分は気分が乗らないと何もする気になれないと言ってきた。または夢がないと目標が確固としたものにならないとも言ってきた。習慣はそれ自体ではあまりに無力だ。習慣は目標に対する信念がなければ機能しない。

しかし自分は最近別の見方をするようになってきた。仮に自分に強力な動機や夢があったとして、今の自分はその実現に向けて努力するだろうか。自分が夢や目標がないというのは、実は怠惰や逃避を正当化するための方便で、本当のところ自分が求めているのは低リスクで莫大な利益が得られる目標ではないのか。

おそらくこの疑問は正しい。あらゆる挑戦に怯えて何もしないまま濡れ手で粟を求めていたのでは、夢や動機は永遠に生まれてこないだろう。出てきたとしても自分で殺してしまう。自分は怠惰を正当化するために虚無を言い訳に用いている。それが強力な目標や夢の種をすべて摘み取ってしまっている。

かなり重要なことだが、自分の躓きのひとつは困難な目標を実存的な問いにすり替えているところだと思う。つまり、困難な目標を達成することが無意味であると思うことで、挑戦とそれに伴う傷を回避しようとしている点だ。これはあらゆる困難や目標に対して最も妥当な言い分を与える。究極的にはすべてが無意味なのだから、何をしても、何をしなくても結局は同じだ。したがって自分は自然の為せる本能に従って、痛みは避け、自己保存に必要な養分だけを獲得し、余剰があれば娯楽を追求し、満足したらあとは寝る。

こういう選択を取るのは楽だし、虚無を前にすればこうせざるを得ないのも納得がいく。しかし、あらゆる挑戦に対する言い訳として、虚無を引き合いに出すべきではない。いずれそれはすべての動機を食い殺す。何もかもが面倒になり何もしなくなる。現に自分はそうなっている。

何をするにしても苦労は伴う。努力は避けられない。だから自分に必要なことは、苦労に慣れること。努力の習慣を身につけること、そして目標を達成したという実績を残すことだ。そうすれば自信がつく。これだけやってきたと後々思い返してみることができる。