人生

やっていきましょう

87日目

頭痛と吐き気がひどい。今は勉強を中断して休んでいる。こういう時は無理をしない。自分の体力にただ従う。

少し考えるところがあり、いくつか簡単に纏めていく。題目は3つ。リーディングの読み方、言語と運用、人生について。

リーディングの読み方はネットで調べ何度かこなしていくうちに分かってきた。読み方には定石があり、それを外さないことで一定の成果が得られることが判明した。ただ全てを運用できている訳でなく、理解し実行できているものと、理解だけで実行できていないものの2つがある。それぞれ見ていくと以下の通りになる。

 

●理解し実行できているもの

設問の先読み

本文を最後まで目を通す

文章が誰から誰に充てられたか確認する

練習段階での精読

 

●理解だけで実行できていないもの

本文を極力読み返さない

分からない問題は捨てる

時間を測って速読

 

前半のものは常に意識して実行できている。これだけでも十分タイムラグをカットできている。問題は後半だ。課題は見えているのに具体的な対処法を見いだせていない。注意が続かず何度も読み返してしまう。分からない問題に遭遇してもなぜか捨てることができない。速読も方法が分からない。速すぎると読み落としが増える。対処法が見えない課題は放置されがちだ。しかしそれでは時間の無駄をカットできない。これらの問題については今後重点的に検討したい。克服できればそれだけの財産になる。

しばしば言語と運用の関係について思うことがある。自分は言語化するのは得意だが実際の行動に落とし込むことが苦手だ。言語で目標を確立することと実際に目標通りに行動できることは別だ。今までこういう事実に目を背けてきたが、事実は事実である。自分は言葉遊びをしていたにすぎない。

言葉は万能ではない。行動を促し目標を定義しても運用の感覚はわからない。運用の感覚は言語による類推というよりは、実際の経験の積み重ねで体得するしかない。経験のみに頼るのも愚かだが、経験に頼らないのも愚かだ。頭でっかちになってはいけない。言語と運用を両立させることが重要だ。

同じことは記録にも言える。記録は行動を言語化して客観的に認識するためのものだが、いつしか言葉が一人歩きし言語による言語のための記録になっていたように感じる。

自分は言語化に頼り過ぎるあまり言語を介してしか自分の行動を認識できなくなってしまっていた。だから少しでも自分に貢献していたのは事実だが、どこか言語化することが目標になってしまい、肝心の行動に落とし込めているとは思えなかった。これは自分の致命的な弱点だ。記録は行動を客観的に認識し改善するために用いることが目的だ。記録をつける際にはその先に行動があることを常に意識し確認しなければならない。

人生について思うところは変わらない。今でも暗闇の中にいる。精神的な挫折が未だに拭えない。心に穴が開いたようで、何をしても無意味だと感じる。何も好きになれない。ただ勉強だけこなして時間を浪費している。

自分の行動や価値観が無の上にあるという自覚を持ってしまうと、何かを得ようとしたり達成することにそこまでこだわりを持てなくなる。自分には生きている価値がないという考えが支配的になり、自殺か、さもなければ慎ましく惰性の中に身を置くくらいしかできなくなる。

外に出て働くことはまだできそうにない。自分が与えられた業務に対して問題なくこなせるという自信がない。予測不可能な問題を踏まえた仕事に臨機応変に対応できる強さが今の自分にはない。そして理不尽なことで叱られることに対する深刻な恐怖を払拭できない。甘ったれたことを言わずに社会に出て闘いの中で学習していけと思うかもしれないが、今出たら本当に壊れてしまうかもしれない。

誰が何を言おうと自分は瀕死だ。瀕死の中で自分はどうにか回復しようとしている。今までには考えられないほど初歩的なことで躓いているが、自尊心の確立、自己効力感の回復がなければ自分は胸を張って社会と闘っていけるとは思えない。弱っているときに強がって今の実力以上のことをやろうとしてもうまくいかない。劣勢の時には劣勢の戦略がある。泥仕事で見栄えはしないだろうが、今できることはそれしかない。