人生

やっていきましょう

309日目

自分が何かを分かっている(分かった)と認めたとき、無意識のうちに2種類のケースを混同している。ひとつは誰かから何かを提示されて、元々自分はそれを知っていたと思うとき。もうひとつはふとしたことで自分の中で何かに気づいたとき。

後者についてはどうでもいい。今回問題にしたいのは前者だ。自分は多くの情報に対して、人から言われた言葉は大抵わかったつもりになっている。たとえば「人生は思うようにはいかない」という言葉を見ると、自分はその言葉を平凡なものだと思うし、今更言われなくても分かっていると不満を漏らしたくなる。だが自分の人生で身をもってそれを経験したとき、あるいは「人生は思うようにはいかない」ということを真剣に考えた際に世界公正仮説が存在しないということ、努力は広告や著名人が易々と喧伝するほどには実り難いということ、願望とは必ずしも自分の中で予定されていてそうあるはずのものではなく極めて偶然的に強化されたり弱化されたりするものであるといった推測に至ったとき、自分は「人生は思うようにはいかない」の意味を全く解していなかったことに気づく。

要するに分かるということが言語上の情報で終始しているのでは不十分だということだ。これは言語上の情報編集能力を否定するものではない。それは有用である一方、あまりに安易に暫定解や仮定にたどり着きやすいから、それがすべてであるように錯覚してしまう。誠実に物事をとらえようとするならば、まず自分の言語認識からも距離を取らなければならない。言葉に思考を奪われる傾向が自分にはある。思考は言語を編集するだけでなく身体を動かしたり、道具を正確に扱う方面にも役立たせられる。それらの層は異なる側面だが、言語だけでは見えなかった新たな領域を理解するきっかけになるかもしれない。物事を多角的に見ることが重要だ。

たとえば「自分には@@ができない」と思うとき、それは自分ができないという情報に支配されている。そしてその中にある限り「自分には@@ができない」を否定する反証は見つからないだろう。そう思い込むことで安心したい心情、やれることをやりつくしたうえでの絶望、予測不可能な将来に対する不安、様々な要因があるだろうが、それらが自分の負の信念を強化する。実際に行動すること、あるいは信頼できる他者にフィードバックを得ることは、そうした言語上の妄想を相対的に見直す契機になる。自分はそこまで行動至上主義ではないが、頭の妄想が現実離れすることを防ぐために行動することは多少有用であるように思う。自分は絶望という観念上の危機的状態にあって「運動」などという楽天的で健康的な社会強者の趣味など受け入れる動機も気力も到底なかったが、このバイアスを破壊して実際に「運動」したことで精神面での安定が多少見られるようになった。これは大学時代に自己破壊的な希死念慮から外に飛び出して得た認識であり、部屋の中で頭を抱え続けていたら決して至らなかった発想だった。

これらのことに留意して、言語に支配されやすい自分の認識を修正していきたい。

まずは人の言うことを言葉通り正確に知ろうとする。その上で人から聞いたことを自分は本当に分かっているのか一旦吟味する。それが言葉通りにしか分からないのか、言葉以外の経験からも分かることなのか、その度合いの違いで相手の言うことがどれほど信頼できるか、採用できるかを判断することができるとおもう。当たり前のことかもしれないが、自分には成しがたいことだ。だから何度でも言い聞かせ自分の注意を持続させる。